1965年、大学生の時、加藤和彦さんが雑誌「MEN’S CLUB」でバンドメンバーを募集しているのを見て応募したことがきっかけで、加藤和彦さんと知り合うと、以降、「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーとして青春を共にし、その後も、「あの素晴らしい愛をもう一度」など、何度も共作を重ねた、北山修(きたやま おさむ)さん。
しかし、そんな盟友である加藤和彦さんは、2009年10月17日、軽井沢のホテルで遺体で発見されています。
今回は、北山修さん視点での加藤和彦さんが亡くなった時の状況、北山修さんが加藤和彦さんに贈った追悼文をご紹介します。

「北山修の若い頃から現在までの作詞作品や著書(精神科医)ほか経歴は?」からの続き
北山修は加藤和彦の変化に気づき心配していた
加藤和彦さんは、晩年、創作意欲の低下に悩み、深いウツ状態にあったそうで、加藤和彦さんから体調不良を相談されていた北山修さんは、知人の精神科医に、加藤和彦さんの主治医になってくれるよう依頼していたそうです。
(周囲の限られた人々も、加藤和彦さんの精神的な変化に気づき、心配していたそうです)
そのようなこともあり、加藤和彦さんを心配した北山修さんは、2009年10月15日夜、加藤和彦さんと会う約束をしていたそうですが、直前に加藤和彦さんから六本木のイタリア料理店で会おうという連絡が届いたそうで、
真面目な話をしようと思っていた北山修さんは、イタリア料理店でお酒を飲みながら、というのは不適切だと考え、その旨を加藤和彦さんに伝えると、
母の具合が悪いので京都に行く
と、理由をつけて会食自体をキャンセルしてきたといいます。
(実は、加藤和彦さんは、その数日前、京都で旧友の平沼義男さんと会い、楽しいひとときを過ごしていたそうで、後に北山修さんは、加藤和彦さんが、最後に自分と楽しく食事をし、それを別れの挨拶にしたかったのではないかと考えるようになったそうです)
北山修は加藤和彦が行方不明になり必死に探していた
そして、その翌日の2009年10月16日、加藤和彦さんの友人の一人のもとに遺書のような内容の手紙が届いたそうで、驚いた友人が加藤和彦さんに電話すると、
加藤和彦さんは、
もう届いたの?
と言って、すぐ電話を切ってしまったといいます。
(加藤和彦さんの死後、北山修さんをはじめ、十数人の知人にも同様の手紙が届いたそうで、死後に届くよう計算して投函されたと考えられますが、一人だけ早く届いてしまったようです)
そんな中、この友人の連絡を受けた北山修さんやマネージャーらは、加藤和彦さんの住んでいた六本木の自宅マンションに集まったそうですが、加藤和彦さんの行方は全く分らなかったそうで、
北山修さんが、加藤和彦さんが京都に行くと言っていたことを思い出し、みんなで手分けして、京都中のホテルに連絡をしたそうですが、個人情報の問題などもあり、情報は得られなかったのだそうです。
加藤和彦の部屋に唯一残されていたのはザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサートの写真だった
そうこうしているうちに、携帯電話などの発信者情報などで加藤和彦さんの位置がつかめるのではないかと誰かが考え、同時に、加藤和彦さんの居場所が分かる手がかりになるものはないかと、加藤和彦さんのマンションの一室を調べると、
置かれていたはずの録音機材やレコードが一切なくなっており、空虚なほど整理されたスタジオに、唯一、1967年10月1日の「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散コンサートで、北山修さん、加藤和彦さん、平沼義男さんの3人が演奏している姿が写った写真だけ残っていたそうで、
北山修さんは、自身にとってもそうであったように、加藤和彦さんにとっても、自分たちの楽しい遊びに興じていたこの時の瞬間が、幸せな思い出として残っていたのだろうと思ったのだそうです。
北山修は加藤和彦の潔い最期に衝撃を受けていた
そして、翌17日朝、軽井沢のホテルで加藤和彦さんが亡くなっているのが発見されると、同時に、北山修さんたちのところにも、加藤和彦さんからの遺書が届き、遺書には、
もう音楽の時代ではなくなった
と記されていたそうで、
北山修さんは、
音楽のために人生があったのではなく、人生のための音楽をしてきたのではないか
と、強い反論の思いを抱きつつ、
友の、あまりにも、用意周到で、侍のように潔い最期に、衝撃を受けたのだそうです。
(しかし、北山修さんは、友人として精神科医として、加藤和彦さんを救えなかったことに深い無念を抱いたそうです)
北山修の加藤和彦への追悼文
それでは、最後に、加藤和彦さんの訃報を受け、北山修さんが寄せた追悼文をご紹介します。
死んだ加藤和彦には、二人の加藤がいたと思う。一人はミュージシャンであり、舞台の前面で演奏するアーティスト。そして、もう一人は、その演奏を厳しく見つめて批評する加藤である。
舞台では実に優しい音楽家だったが、楽屋で怒るとこわかった。ある時など、私の代わりに、スタッフに対しカンカンになって怒ってくれたこともあった。
稀代の天才は表面的には遊んでいるように見えて、それを厳しく見つめる評論家のような分身を自らの内に抱え込んでいる。厳しい加藤は、もちろん自分自身にも、そして共作者の私にも厳しかったし、私が何回書き直してもダメ出しが続いたものだ。
ところが、良い作品ができた途端に、天使のように微笑んでくれた。忘れもしない、「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞ができた日、「最高だよ最高」と言ってはしゃぐ電話の声が今でも耳に聞こえる。
時間にして、彼の作曲が1日、私の作詞が1日という短さだった。書き直しは全く求められなかったし、加藤の予測の通り、曲の評判は上々だった。
ところが、加藤宅からの最後の電話は、彼自身の訃報だった。しかも今回はやり直しがきかない。取り返しがつかない。
ふと思い出したのは、生前、互いの葬式では「帰って来たヨッパライ」を流そうと言って、酒を酌み交わしたこと。エンディングの木魚とお経が「ぴったりだ」と二人は腹を抱えて笑った。もちろん、それも今では悪い冗談でしかないが。
彼の自死は、自らの人生という「作品」について、もう一人の加藤和彦があまリに厳しくて、自分で自分を追いつめた結果、こういう結末になったのだと私は考える。そして、このような「死んじまった」というエンディングについて、何度も共作を重ねてきた私に何の相談もしないで「作品」を放り出したことが悔しい。
そこで、作詞家としての私としては、今度天国に行くまでは、オラは生き残っただァ、と歌いながら加藤の分まで生きて生きて生き残ってやりたい。天国のあいつに「格好が悪い」と言われようとも、またどれだけダメ出しされようとも、何度も書き直してやる。
それが加藤和彦と私にできる最後の共作であり、フオークル最後の演奏なのだ。
「北山修の妻は?家族は?子供は息子1人娘2人で長男長女共に医師!」に続く
![]()
「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーとして「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡すると、その後も、「あの素晴しい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」など数々の名曲の作詞を手掛けて、独自の感性と社会への鋭い視点で時代 …







