小山田圭吾さんと共に「フリッパーズ・ギター」として、「恋とマシンガン」などのヒット曲で90年代初頭の渋谷系ムーブメントをけん引すると、人気絶頂のさなかに、突如、解散し、伝説的な存在として今もなお語り継がれている、小沢健二(おざわ けんじ)さん。
今回は、小沢健二さんの、若い頃(「フリッパーズ・ギター」時代)のアルバムやシングルほか経歴を時系列でご紹介します。

「小沢健二の生い立ちは?東大進学後に小山田圭吾にバンドに誘われていた!」からの続き
小沢健二は21歳の時に「フリッパーズ・ギター」としてアルバム「three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった」でメジャーデビュー
小山田圭吾さんらとともにアマチュアバンド「ロリポップ・ソニック」で活動を開始した小沢健二さんは、ポップで実験的なサウンドをインディーズシーンで模索していたそうですが、
そんな中、インディーズでのライブや自主製作のデモテープがレコード会社(ポリスター)の目に留まったそうで、
1989年8月25日、「ロリポップ・ソニック」を「フリッパーズ・ギター」に改名して、全曲英語歌詞のファーストアルバム「three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった」でメジャーデビューを果たしています。
ちなみに、「フリッパーズ・ギター」のデビューに関わった、プロデューサーの牧村憲一さんは、「ロリポップ・ソニック」のデモテープを聴いた時のことを、自身の著書「ヒットソングの作りかた」で、
音楽への知識と曲作りに対する繊細な意識が感じられた
と、綴っています。
小沢健二が21歳の時「フリッパーズ・ギター」はメンバー3人が脱退し小山田圭吾と2人編成になっていた
しかし、同年8月初旬、小山田圭吾さんが交通事故に遭い、全治6ヶ月の重傷を負って3ヶ月の入院を余儀なくされてしまい、その間、「フリッパーズ・ギター」は音楽活動を休止せざるを得なくなってしまいます。
また、最初は5人編成だったメンバーも、井上由紀子さん、吉田秀作さん、荒川康伸さんの3人が脱退し、小沢健二さんと小山田圭吾さんの2人編成となってしまいます。
とはいえ、「フリッパーズ・ギター」は、当初から、曲作りは小沢健二さんと小山田圭吾さんの2人で行い、ライブでも、(「ロリポップ・ソニック」時代から)お客さんのほとんどは、2人目当てだったそうで、2人編成となったのは、自然な流れだったようです。
小沢健二は21歳の時に「フリッパーズ・ギター」としてリリースした2ndシングル「恋とマシンガン」が大ヒット
さておき、その後、小山田圭吾さんが復帰した「フリッパーズ・ギター」は、1990年1月25日には、ファーストシングル「Friends Again」をリリースし、

「Friends Again」
1990年5月5日には、2枚目のシングル「恋とマシンガン」をリリースすると、「恋とマシンガン」は、10万枚以上を売り上げる大ヒットとなっています。

「恋とマシンガン」
小沢健二は22歳の時に2ndアルバム「CAMERA TALK」、23歳の時に3rdアルバム「DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」が大ヒット
さらに、「フリッパーズ・ギター」は、
- 同年(1990年)6月6日、2枚目のアルバムで全曲日本語歌詞の「CAMERA TALK」
- 1991年7月10日、3枚目のアルバム「DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」
と、リリースすると、いずれも大ヒットを記録したのですが・・・
「DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」をリリースした直後の1991年10月、ツアーを残して、突然、解散。
この、あまりにも突然の解散に、関係者もファンも騒然となったのでした。
「フリッパーズ・ギター」の解散原因は小沢健二?
ちなみに、「フリッパーズ・ギター」の解散理由ですが、
1991年9月、小沢健二さんと小山田圭吾さんは、渋谷クアトロで某ライブにゲスト出演したそうですが、
その楽屋で、小沢健二さんが、
もう、フリッパーズ、やめにしない?
と、小山田圭吾さんに解散を持ちかけたのがきっかけだったそうです。
(その時、小山田圭吾さんは、(小山田圭吾さん特有の)上向きの視線で小沢健二さんを見て、しばらく黙ったままだったといいます)
「【画像】小沢健二の若い頃(ソロ以降)から現在までのヒット曲ほか経歴は?」に続く
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「フリッパーズ・ギター」解散後の1993年、「天気読み」でソロデビューすると、1994年には、スチャダラパーとの共演作「今夜はブギー・バック」が売上50万枚を超える大ヒットを記録するほか、その後も、「カローラII」でオリ …










