23歳の時、ブザンソン国際指揮者コンクールでの優勝をきっかけに世界的に活躍するようになり、ボストン交響楽団音楽監督を29年間務めると、東洋人初のウィーン国立歌劇場音楽監督にも就任し、「世界のオザワ」と称され国際的な地位を確立した、小澤征爾(おざわ せいじ)さん。
そんな小澤征爾さんは、幼い頃から音楽に親しんでいたそうで、7歳の時、音楽が好きだった長兄の小澤克己さんにアコーディオンを教えてもらい、11歳の時には、ピアノも教えてもらうと、その才能に目を留めた家族のサポートを受けて、ピアニストを目指すようになったそうですが、
中学3年生の時、ラグビーの試合中に手の指を骨折してしまい、ピアニストの道を断念していたといいます。
今回は、小澤征爾さんの生い立ち(幼少期から中学3年生まで)についてご紹介します。

小澤征爾のプロフィール
小澤征爾さんは、1935年9月1日生まれ、
満州国奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)の出身、
学歴は、
若草幼稚園
⇒立川国民学校
⇒金田小学校
⇒成城学園中学校
⇒成城学園高校
⇒桐朋女子高校(男女共学)音楽科
⇒桐朋学園短期大学音楽学部卒業
だそうです。
小澤征爾の本名の由来は?
「小澤征爾」は本名だそうですが、
お父さんが、満州青年連盟長春支部長を務めていた際、関東軍作戦参謀の石原莞爾氏と板垣征四郎氏に目をかけられて親しくなったことから、2人の名前から一字ずつもらって「征爾」と名付けたそうです。
(お父さんは、小澤征爾さんの出生の知らせを聞いた時、ちょうどこの2人と一緒にいたのだそうです)
ちなみに、小澤征爾さんは、日本経済新聞「私の履歴書」で、
子供のころは書けなくてよく「征雨」と間違えたものだ。
と、語っています。
小澤征爾の家系図
小澤征爾さんは、著名人の一族で、
父親は、政治活動家で満州青年連盟長春支部長の小澤開作氏、
長兄は、彫刻家の小澤克己さん、
次兄は、ドイツ文学者で日本昔話研究者の小澤俊夫さん、
末弟は、俳優でエッセイストの小澤幹雄さん、
息子(長男)は、俳優の小澤征悦さん、
娘(長女)は、エッセイストの小澤征良さん、
さらに、甥(小澤俊夫さんの次男)には、ミュージシャンの小沢健二さんがいます。

小澤征爾さんの家系図。
小澤征爾が幼い頃は裕福で何不自由ない生活を送っていた
小澤征爾さんは、満州青年連盟長春支部長を務めていたお父さんの小澤開作氏とクリスチャンだったお母さんのもと、4人兄弟の三男として誕生すると、
(お父さんは、もともと歯科医で、長州で開業していたそうですが、小澤征爾さんが誕生した頃にはすでに辞めていたそうです)
お父さんが政治活動にのめりこみ、新しい政治団体「新民会」を結成したことから、小澤征爾さんが誕生した翌年の1936年には、一家で、中国・北京の新開路に引っ越しをしたそうですが、
そこでは、大きなお屋敷に、お父さんが郷里から呼び寄せた日本人の2人のお手伝いさんと中国人のお手伝いさんの李さん一家と一緒に暮らすなど、裕福で何不自由ない生活を送ったそうです。
小澤征爾は幼少期に教会で讃美歌を歌ったことがきっかけに家族で合唱するようになっていた
そんな中、小澤征爾さんは、クリスチャンだったお母さんに連れられ、教会の日曜学校に通い始めたそうですが、そこで、讃美歌を歌っていたことから、家でも家族みんなで合唱するようになったそうです。
また、5歳のクリスマスの時には、お母さんが、大雪の中、大通りの王府井(ワンフーチン)まで行って、アコーディオンを買ってきてくれたそうですが、
その後、一番上の兄・克己さんが、みるみるうちにアコーディオンが上達したそうで、小澤征爾さんたちは克己さんの伴奏に合わせて合唱するようになったそうです。
(これが小澤征爾さんにとって音楽との最初の出会いだったそうです)
小澤征爾は10歳の時に本格的にピアノを学び始めていた
そして、1941年3月、6歳の時には、お父さんを満州に残したまま、お母さんやお兄さんたちと共に日本に帰国すると、その2年後の1943年には、お父さんも帰国し、家族で東京の立川市で生活を始めたそうですが、
1942年、7歳の時、長兄の克己さんからアコーディオンを教えてもらい、終戦後の1946年、11歳の時、同じく克己さんからピアノを教えてもらうと、
(克己さんが通う府立二中の許可を得て、音楽室のピアノを特別に使わせてもらっていたそうです)
家族が、小澤征爾さんに音楽的な才能を感じ、お父さんとお兄さんが、ピアノを横浜市白楽の親類から安価で譲り受け、リアカーに縛りつけて、3日かけて立川市の自宅まで運んでくれたそうで、
以降、小澤征爾さんは、本格的にピアノを学び始めたのだそうです。
(兄の小澤俊夫さんは、お父さんが、戦後で、家がまだ貧しかったにもかかわらず、音楽が好きだった子供たちにピアノを買ってくれたと語っています)
小澤征爾は中学3年生の時にラグビーの試合で人差し指を骨折しピアニストを断念していた
そんな小澤征爾さんは、1948年、成城学園中学校に入学すると、ピアニストを目指し、(ピアニストの)豊増昇さんからピアノを習っていたそうですが、
その一方で、中学ではラグビー部に所属し、3番プロップとして活動していたそうで、
いつも、お母さんからは、
ピアノをやっているんだから指は大切にしないと
と、言われていたそうですが、
それにもかかわらず、隠れてラグビーの練習をしていたそうで、
ついに、1950年頃、ラグビーの雨の試合でスクラム時に右手(両手という話も)人差指を骨折してしまったそうで、ピアニストの道を断念することを余儀なくされてしまったのだそうです。
小澤征爾は中学3年生の時に豊増昇に勧められ指揮者に転向していた
そんな中、小澤征爾さんは、豊増昇さんから、
君はどうして指揮をやらないの?
と、言われたそうで、
中学3年生(14歳)の時、生まれて初めてオーケストラを聴きに行くと、レオニード・クロイツァー氏の指揮での演奏に衝撃を受けたそうで、
以降、スコアを読み、指揮の勉強をするようになったのだそうです。
「小澤征爾の若い頃から死去までの指揮者としての経歴は?著書は?」に続く
![]()
15歳の時、齋藤秀雄氏の指揮教室に入門して基礎を叩き込まれると、その後は、単身、ヨーロッパに渡航し、世界的なコンクールでの優勝、N響からのボイコット、北米での大成功を経て、「世界のオザワ」と称されるようになった、小澤征爾 …







