1973年から29年間に渡ってアメリカ・ボストン交響楽団の音楽監督を務めるほか、2002年には、東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するなど、欧米で絶大な人気を博した、小澤征爾(おざわ せいじ)さん。
今回は、そんな小澤征爾さんの、兄弟や甥の小沢健二さんについてご紹介します。

「小澤征爾はN響(NHK交響楽団)事件が「世界のオザワ」への契機となっていた!」からの続き
小澤征爾の兄弟は?
小澤征爾さんは、四人兄弟の三男なのですが、長兄は、彫刻家の小澤克己さん、次兄は、ドイツ文学者で日本昔話研究者の小澤俊夫さん、末弟は、俳優でエッセイストの小澤幹雄さんです。
長兄は小澤克己
長兄の小澤克己さんは、1928年に誕生すると、幼少期は家族と共に満州で過ごし、1941年に母や他の兄弟たちと帰国したそうですが、
音楽が好きだった小澤克己さんは、1942年~1946年頃、弟の小澤征爾さんにアコーディオンとピアノの手ほどきをするなど、小澤征爾さんの音楽的才能を発見するきっかけを作っていたそうで、
これにより、小澤征爾さんは、家族主導で本格的にピアノを習うようになったそうです。
ただ、小澤克己さん本人は、音楽の道には進まず、東京藝術大学を卒業後、パリに留学して彫刻を学ぶと、その後、彫刻家として活動していたようですが、作品や展覧会歴については、ほとんど公開されていないようです。
ちなみに、小澤征爾さんは、大江健三郎さんとの共著「同じ年に生まれて」で、
おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。
本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のことby編者)。
一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた
と、綴っており、
小澤克己さんも音楽が大好きだったようで、弟の小澤征爾さんほど公の場で注目されることは少なかったものの、家族の芸樹的基盤を支える存在だったようです。
(小澤克己さんは1984年に56歳で他界されています)
次兄は小澤俊夫
次兄の小澤俊夫さんは、1930年4月16日、中国・満州で誕生すると、
中学生~高校生ぐらいの頃、医師・神学者・哲学者だったアルベルト・シュヴァイツァーに心酔し、関連図書をドイツ語で読もうと、ドイツ語を学ぶために茨城大学に進学したそうですが、
大学2年生の時にグリム童話に出会い、東北大学大学院でグリム童話の研究を始めたそうで、
大学2年生の時、グリム童話が創作ではなく昔話だと知って衝撃を受け、以来、日本の昔話を研究するようになると、1992年には「昔ばなし大学」を開講するなど、昔話本来の姿を伝えている、小澤俊夫(おざわ としお)さん。 そんな小 …
その後、柳田国男氏との出会いがきっかけで、日本の昔話にも興味を持つようになると、日本全国の昔話の収集に取り組むなど、日本の昔話研究の第一人者として精力的に活動し、
1992年には、「昔ばなし大学」を開講すると、1998年には、「小澤昔ばなし研究所」を設立し、現在も、昔話本来の姿を伝えるための活動を続けています。
弟は小澤幹雄
弟の小澤幹雄さんは、1937年10月24日に誕生すると、早稲田大学仏文科卒業後、東宝演劇部に入社し、劇団「東宝現代劇」に、第二期生として入団したそうで、その後、約10年間、舞台俳優として活動したそうですが、
1971年に、劇団「東宝現代劇」を退団すると、主な活動の場をテレビに移し、NHK大河ドラマ「勝海舟」「風と雲と虹と」などに出演するほか、
1987年~1989年には、情報番組「モーニングセンサー」や「さわやかトゥデイ」で、司会を務めています。
また、兄・小澤征爾さんや音楽に関するエッセイも、
- 「やわらかな兄 征爾」(現代芸術社、1985年。光文社文庫、2019年)
- 「小澤幹雄のやわらかクラシック」(音楽の友社、1990年)
- 「小澤幹雄の続・やわらかクラシック」(音楽の友社、1995年)
- 「音楽の庭 小澤幹雄のやわらかクラシック」(NECクリエイティブ、2000年)
- 「音楽の広場から 小澤幹雄のやわらかクラシック」(郷土出版社、2006年)
- 「音楽の広場から 小澤幹雄のやわらかクラシック2」(郷土出版社、2013年)
など、多数出版しています。
小沢健二は小澤征爾の甥
甥の小沢健二さんは、1968年4月14日に誕生すると、東京大学在学中に、高校の同級生だった小山田圭吾さんらが結成した「ロリポップ・ソニック」に参加し、1989年に、「フリッパーズ・ギター」と改名してメジャーデビューすると、
1993年にはソロに転身し、「天気読み」でソロデビューすると、以降、「ラブリー」「カローラIIにのって」「今夜はブギー・バック」などのヒットを飛ばし、
1990年代には、軽快でウィットに富んだトーク、余裕のある振る舞い、ファッションなどが若い世代の女性たちから絶大な支持を得て、「渋谷系の王子様」と呼ばれるほどの人気を博しました。
1989年、20歳の時、小山田圭吾さんとのユニット「フリッパーズ・ギター」として、アルバム「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」でデビューすると、 1993年にはソロデビューし …
23歳の時、ブザンソン国際指揮者コンクールでの優勝をきっかけに世界的に活躍するようになり、ボストン交響楽団音楽監督を29年間務めると、東洋人初のウィーン国立歌劇場音楽監督にも就任し、「世界のオザワ」と称され国際的な地位を …
「小澤征爾の前妻は?再婚相手は入江美樹!娘は小澤征良!息子は小澤征悦!」に続く
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「世界のオザワ」と称されて世界中の舞台で活躍するほか、「新日本フィルハーモニー交響楽団」を設立するなど、日本のオーケストラ界にも大きな足跡を残した、小澤征爾(おざわ せいじ)さん。 そんな小澤征爾さんは、プライベートでは …













