15歳の時、齋藤秀雄氏の指揮教室に入門して基礎を叩き込まれると、その後は、単身、ヨーロッパに渡航し、世界的なコンクールでの優勝、N響からのボイコット、北米での大成功を経て、「世界のオザワ」と称されるようになった、小澤征爾(おざわ せいじ)さん。
今回は、小澤征爾さんの、若い頃から死去までの指揮者としての経歴や著書を時系列でご紹介します。

「小澤征爾の家系図は?幼少期から裕福でピアノもケガで指揮者に転向していた!」からの続き
小澤征爾は15歳の時に齋藤秀雄の指揮教室に入門していた
小澤征爾さんは、1951年、15歳の時、成城学園高校へ進学すると、お母さんの遠縁だった齋藤秀雄さんに指揮を教えてもらえるようになり、齋藤秀雄さんの指揮教室に入門したそうで、
翌年の1952年には、齋藤秀雄さんが開設に関わった桐朋女子高等学校(男女共学)音楽科に第1期生として入学したそうです。
(癇癪(かんしゃく)持ちだった齋藤秀雄さんからは、日常的に、指揮棒で叩かれたり、楽譜を投げつけられたりするなど厳しい指導を受けたそうですが、指揮の基礎を徹底的に叩き込まれたそうです)
小澤征爾は22歳の時に群馬交響楽団で指揮をしていた
その後、小澤征爾さんは、1955年、桐朋女子高等学校卒業後は、桐朋学園短期大学音楽学部に進学すると、1957年、桐朋学園短期大学音楽学部卒業後は、齋藤秀雄さんからの紹介で、群馬交響楽団で指揮を担当するようになり、
同年12月、日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会、モーリス・ラヴェルの「子供と魔法」では、渡邉暁雄さんの下で、副指揮者を務めたそうで、
やがて、小澤征爾さんは、
音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかない
と、強く思うようになったそうです。
また、齋藤秀雄さんの指揮教室で知り合った山本直純さんからは、
音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ
と、後押ししてもらったそうです。
小澤征爾は23歳の時にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝していた
そんな小澤征爾さんは、1959年2月1日、23歳の時、スクーターとギターを持参して貨物船に乗り込み、単身で渡仏すると、
(師匠の齋藤秀雄さんからは猛反対されたそうですが、桐朋の父兄会や水野成夫さんらの支援により、約1200ドル(約45万円相当)を餞別として受け取ったそうです)
なんと、いきなり、同年、「第9回ブザンソン国際指揮者コンクール」で優勝。
実は、このコンクールは、応募の締め切りを過ぎていたそうですが、つてを頼って紹介してもらった米国大使館の職員の口利きで、参加できたのだそうです。
小澤征爾は26歳の時にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任していた
すると、「第9回ブザンソン国際指揮者コンクール」の審査員だった巨匠シャルル・ミュンシュに招かれ、1960年、25歳の時には、ボストン交響楽団が毎夏米国マサチューセッツ州で主宰するタングルウッド音楽祭に参加すると、クーセヴィツキー賞を受賞。
さらには、このことがきっかけとなり、1961年には、指揮者・レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に抜擢されたそうで、以降、バーンスタインの下で研鑽を積んだのだそうです。
また、同じ頃、ヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選出するコンクールにも合格し、カラヤンにも師事したそうで、以来、バーンスタインとカラヤンとの親交は生涯に渡って続いたそうです。
小澤征爾は27歳の時にNHK交響楽団からボイコットされ日本に見切りをつけて渡米していた
そんな小澤征爾さんは、1962年6月から(小澤征爾さん27歳)、NHK交響楽団と半年間の契約を結んだそうですが・・・
楽団員からは、
生意気だ
態度が悪い
間違いが多い
と、ボイコットされ、たった一人で指揮台に立つという屈辱的な経験をしたそうで、
このことにより指揮者を辞任すると、日本に見切りをつけ、日本では音楽活動をしないと決めて渡米したのだそうです。
ちなみに、翌年の1963年には、「小澤征爾の音楽を聴く会」が開催されているのですが、発起人には、浅利慶太さん、石原慎太郎さん、井上靖さん、大江健三郎さん、曽野綾子さん、武満徹さん、谷川俊太郎さん、團伊玖磨さん、中島健蔵さん、黛敏郎さん、三島由紀夫さんら大物著名人たちが名を連ねています。
小澤征爾は29歳の時に北米で成功を収めていた
こうして、渡米した小澤征爾さんは、1964年、シカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭で音楽監督を務めていたそうですが、
急病の指揮者の代役として数日前に招聘されると、見事、音楽祭を成功させたそうで、これで、一気に小澤征爾さんの名前が全米に知れ渡り、
- 1965年(30歳)の時には、トロント交響楽団音楽監督に就任
- 1970年(35歳)の時には、サンフランシスコ交響楽団音楽監督に就任
したのでした。
小澤征爾は37歳の時に「日本フィルハーモニー交響楽団」存続の危機に接し天皇陛下に直接窮状を訴えていた
そんな中、1972年には、小澤征爾さんが率いていた「日本フィルハーモニー交響楽団」が、突然、スポンサーからの支援を打ち切られ、存続の危機に陥ったそうで、
この知らせを聞いた小澤征爾さんは、急いでアメリカから帰国すると、オーケストラを守るために必死に駆け回り、ついには天皇陛下へ、直接、窮状を訴えるほか、
ちょうどその年、小澤征爾さんは、栄誉ある日本芸術院賞を受賞したそうですが、
その授賞式でも、
私だけが賞をいただく状況ではありません。今、仲間であるオーケストラが大変なのです
と、思わず言ってしまったといいます。
それでも、当時の「日本フィルハーモニー交響楽団」は、解散することになったそうですが、
(当時の「日本フィルハーモニー交響楽団 財団法人」は解散しましたが、楽団員たちの手で活動は続き、現在は「公益財団法人」として活動しているそうです)
小澤征爾さんは諦めず、音楽家の山本直純さんと共に「新日本フィルハーモニー交響楽団」を新たに立ち上げると、
その後、長年に渡って、「新日本フィルハーモニー交響楽団」で指揮し続けるほか、恩人である山本直純さんのテレビ番組にも何度も出演しています。
小澤征爾は38歳の時にボストン交響楽団第13代音楽監督に就任
そんな小澤征爾さんは、1973年には、ボストン交響楽団第13代音楽監督に就任すると、1976年には、ボストン交響楽団によるヨーロッパ・ツアーで国際的な評価を高めているのですが、
2002年まで29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務め、「世界のオザワ」と称されたのでした。
小澤征爾は57歳の時に「サイトウ・キネン・オーケストラ」を設立していた
また、小澤征爾さんは、1992年(小澤征爾さん57歳)には、師である齋藤秀雄氏の名前を冠した「サイトウ・キネン・オーケストラ」を設立すると、
毎年、このオーケストラで、長野県松本市で音楽祭(セイジ・オザワ 松本フェスティバル)を開催するようになっています。
小澤征爾は67歳の時に東洋人初のウィーン国立歌劇場音楽監督に就任
そして、2002年(小澤征爾さん67歳)には、東洋人初のウィーン国立歌劇場音楽監督に就任すると、
2010年春まで8年間務めています。
小澤征爾は88歳で心不全により死去
しかし、そんな小澤征爾さんも、2005年に白内障の手術を受けるほか体調不良に悩まされるようになると、翌年の2006年には、帯状疱疹(たいじょうほうしん)と角膜炎を患い、活動を休止。
また、2010年には、食道ガンと診断されて食道全摘手術を受け、その後、無事回復すると、同年8月には、復帰会見を開き、
家族がラグビーのスクラムのように一体になって助けてくれた
マイペースでやっていきたい
と、語っていたのですが、
翌年の2011年には、術後の療養中に腰痛が悪化し、坐骨神経痛に悩まされるなど、体調面での不安が続いて、演奏会のキャンセルが増加。
それでも、2022年には、「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」で車椅子に乗って登場するなど、音楽への情熱を持ち続けていたのですが、
2024年2月6日、東京都内の自宅で心不全により、88歳で他界されたのでした。
小澤征爾の著書
それでは、最後に、小澤征爾さんの著書をご紹介します。
- 「父を語る」(編、1972年)
- 「やわらかな心をもつ」(新潮文庫、1984年)※広中平祐と共著
- 「音楽」(新潮文庫、1984年)※武満徹と共著
- 「同じ年に生まれて」(中央文庫、2001年)※大江健三郎と共著
- 「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫、2002年)
- 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮文庫、2011年)※村上春樹と共著
- 「小澤征爾指揮者を語る」(2012年)※インタビュー有働由美子
- 「おわらない音楽:私の履歴書」(2014年)
- 「斉藤秀雄講義録」(編集委員)
などを出版しています。
「小澤征爾の死因は?晩年は約20年に渡る壮絶な闘病をしていた!」に続く
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世界的指揮者として活躍し、日本においても、国際的音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(現在は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」)を設立して総監督に就任するほか、後進の育成にも力を注いでいた、小澤征爾(おざわ …











