1989年、20歳の時、「フリッパーズ・ギター」として、アルバム「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」でデビューするも、1991年には解散し、1993年には、ソロユニット「Cornelius(コーネリアス)」として再始動した、小山田圭吾(おやまだ けいご)さん。
そんな小山田圭吾さんは、お父さんが歌手の三原さと志さん、お母さんが歌手の田辺靖雄さんの姉・和田伊都子さんという、芸能人の一家に誕生すると、中学生の時には、ギターを始め、20個ものバンドを掛け持ちしていたそうですが、幼い頃から絵を描くことも大好きで、高校卒業後は、美術学校に通っていたといいます。
今回は、小山田圭吾さんの、幼少期(生い立ち)から「フリッパーズ・ギター」のメンバーとしてデビューが決まるまでをご紹介します。

小山田圭吾のプロフィール
小山田圭吾さんは、1969年1月27日生まれ、
東京都世田谷区の出身、
学歴は、
学校法人和光小学校
⇒和光中学校・高等学校
⇒セツ・モードセミナー卒業
ちなみに、「小山田圭吾」は本名です。
小山田圭吾の父親は歌手の三原さと志
小山田圭吾さんは、ミュージシャン・芸能人一家で、
- お父さんは、「和田弘とマヒナスターズ」のメンバーで歌手の三原さと志(本名は小山田晃)さん
- お母さんは、歌手・田辺靖雄さんの姉・和田伊都子さん
- 母方の祖父は、元NHKアナウンサーで「第1回、第2回NHK紅白歌合戦」の総合司会を務めた田辺正晴さん

幼い頃の小山田圭吾さんと両親。
また、親族には、
- ベンチャーキャピタリストの伊藤穰一さん
- イギリスのロックバンド「Lush」のヴォーカル・ミキ・ベレーニさん
- 「ハナレグミ」の永積崇さん
が、います。
小山田圭吾は中学生の時にギターを弾き始め、バンドを20個掛け持ちしていた
小山田圭吾さんは、お父さんで歌手の三原さと志さんとお母さんの和田伊都子さんのもと誕生すると、中学生の時、ギターを弾き始めたそうですが、
以降、ヘヴィメタル、ニューウェーブ、ギターロック、ハードコアなど、学校内外の様々なバンドに参加し、なんと、20個ものバンドを掛け持ちしていたそうです。
小山田圭吾は高校卒業後は美術学校「セツ・モードセミナー」に通っていた
一方、小山田圭吾さんは、幼い頃から絵を描くことも大好きで、1987年、高校卒業後は、美術学校「セツ・モードセミナー」に通っていたそうで、
小山田圭吾さんは、
美大に憧れはあったけれど、僕にはハードルが高すぎて全然無理。そうしたら、抽選で入学できて授業料も安い学校があると友達に聞いて。
それで行ってみたら本当に抽選だったんです。箱に手を入れて三角形のくじを引いて。当たった!って
と、語っています。
小山田圭吾は18歳の時に井上由紀子からバンド加入を誘われていた
こうして、小山田圭吾さんは、好きな音楽を聴き、好きな楽器を演奏し、好きな絵を描ける学校に通い、レコードを買うためにアルバイトをし、将来のことは何も考えない日々を満喫していたそうですが、
そんな中、2つ上の先輩が、雑誌「ポパイ」の編集部でアルバイトをしていたことから、ストリートスナップをやる時、
明日原宿に来てくれないかな
と、よく声をかけられていたそうで、
撮影に行けば数千円の謝礼がもらえたことから、高校生の頃から、時々、「ポパイ」に出演していたそうですが、
ある日のこと、突然、(当時、大学生だった)井上由紀子さんから、
雑誌で見かけたんだけど、一緒にバンドやらない?
と、家に電話がかかってきたといいます。
実は、井上由紀子さんは、自身のバンドのフロントマンとなるボーカルとギターを探していた中、偶然、立ち読みしていた「ポパイ」で小山田圭吾さんの写真を見て、小山田圭吾さんの中性的な容姿がイメージにピッタリだと思ったそうで、
人づてに小山田圭吾さんの連絡先を入手し、電話をかけたのだそうです。
小山田圭吾は18歳の時に井上由紀子と「ロリポップ・ソニック」を結成(後に小沢健二も加入)
そこで、小山田圭吾さんは、井上由紀子さんに会いに行くと、中学生の時、20個ほどのバンドを掛け持ちしていたこともあり、この時も、「僕でよければ」と、軽い気持ちで引き受けたそうで、
1987年秋、井上由紀子さんと、バンド「Pee Wee 60’s」を結成し、ライブハウスを中心に活動を始めたのだそうです。
すると、やがて、小山田圭吾さんと井上由紀子さん以外のメンバーが脱退し、2人体制となったそうで、「ロリポップ・ソニック」に改名し、引き続きライブハウスで活動していたそうですが、
2人で数回ライブを行った後、吉田秀作さん(ベース)、荒川康伸さん(ドラムス)が加入し、さらに、翌年の1988年春には、高校時代の音楽仲間だった小沢健二さんを誘ったそうで、「ロリポップ・ソニック」は5人体制での活動となったそうです。
小山田圭吾は20歳になる直前にプロデューサー・牧村憲一にスカウトされてデビューが決定していた
そんな中、1989年1月、20歳になる直前、小山田圭吾さんは、田島貴男さんのライブを観に行った際、ポリスターレコードのプロデューサー・牧村憲一さんに、
今度レコーディングしてみない?
と、声をかけられたそうで、すぐに了承すると、
(1988年の終わり頃、ある人を介し、「ロリポップ・ソニック」のデモテープが牧村憲一さんの手元に渡っていたのだそうです)
そこから、トントン拍子で話が進み、すぐにデビューアルバムのレコーディングが始まり、同年8月にはリリースすることが決定したそうで、バンド名も「フリッパーズ・ギター」と改名したのだそうです。
とはいえ、小山田圭吾さんにとって、バンドはあくまで趣味であり、遊びの延長だったことから、デビューには戸惑いがあったそうで、
小山田圭吾さんは、
そもそも自分がプロになれるなんて思ってなかったんです。一般的にはマニアックといわれる音楽が好きだったし、これで一生食べていこうとも考えなかった。
だからこそ、ジャケットのアートワークを含め、自分たちの好きなものだけを詰め込んだんです。結果売れなくても仕方がない、もともとマイナーな存在なんだからって。自信も覚悟もなかったからだと思いますね
と、語っています。
「【画像】小山田圭吾の若い頃(フリッパーズギター)のアルバム&シングルほか経歴は?」に続く
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1990年、バンド「フリッパーズ・ギター」として、2枚目のシングル「恋とマシンガン」がヒットすると、続く、2枚目のアルバム「CAMERA TALK」もヒットし、たちまち人気を博した、小山田圭吾(おやまだ けいご)さん。 …







