「和田弘とマヒナスターズ」のリードボーカルとして、1950年代後半から2000年代初頭まで、約45年間に渡って活動し、「誰よりも君を愛す」や「お座敷小唄」などの名曲を世に送り出すと、
その裏声を生かした独特の歌唱スタイルが人気を博し、日本の歌謡界の黄金期を支えた、三原さと志(みはら さとし)さん。
今回は、そんな三原さと志さんの、若い頃(「和田弘とマヒナスターズ」~「マヒナスターズ」)から死去までのヒット曲や経歴を時系列でご紹介します。

三原さと志のプロフィール
三原さと志さんは、1935年7月3日生まれ、
中国・山東省青島市(当時の日本領租借地)の出身、
だそうです。
三原さと志の本名は?
三原さと志さんの本名は、「小山田晃(おやまだ あきら)」というそうですが、
「三原さと志」という芸名は、「和田弘とマヒナスターズ」のリーダーだった和田弘さんにより、名付けられたそうで、
三原さと志さんは、
小山田という名前はね、ちょっと堅いからね
僕はどっちでもいいやなんて思ったんですけどね(笑)。まぁ、芸名付けるのが当時 流行ってましたんで
と、語っています。
ちなみに、幼児向け番組「ひらけ!ポンキッキ」で「まる・さんかく・しかく」「カンフーレディー」などの作曲のほか、「みんなのうた」で「だるまさんがころんだ」を編曲している小山田暁さんは別人です。
三原さと志は若い頃から裏声を生かした歌唱スタイルが注目されていた
三原さと志さんは、お父さんの仕事の関係で、日本統治下だった中国・山東省青島市で誕生したそうですが、
戦後、日本に引き揚げると、若い頃から音楽に興味を持ち、歌唱力を磨いたそうで、特に、裏声を生かした歌唱スタイルが注目されるようになったそうです。
三原さと志は23歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」に加入していた
そんな中、三原さと志さんは、和田弘さんに誘われ、1958年、23歳の時、「和田弘とマヒナスターズ」に加入すると、その歌唱力を買われて「和田弘とマヒナスターズ」のリードボーカルを務めることになったそうで、
三原さと志さんは、「和田弘とマヒナスターズ」加入することになった経緯について、1996年6月3日、息子である小山田圭吾さんのラジオ番組「コーネリアスのLOVE OVER TIME」にゲスト出演した際、
(もともとはジャズをやっていたことから)売れなくてもいいからジャズをやってたいと思ってたんですけどね。まぁ、和田さんに強引に誘われまして(笑)。まぁそのおかげで今があるんですけど(笑)
と、語っています。
(実は、このグループは、もともと、和田弘さんらが、1953年に「山口銀次とマヒナスターズ」を結成し、翌1954年に「和田弘とマヒナスターズ」と改称すると、1957年にレコードデビューを果たしたそうですが、それまで、カバー曲ばかり演奏していたのをオリジナル曲をやるようになった時に、三原さと志さんが加入したのだそうです)
三原さと志は23歳~24歳の時に「泣かないで」「誰よりも君を愛す」が大ヒット
すると、「和田弘とマヒナスターズ」は、1958年8月、「泣かないで」をリリースすると、いきなり大ヒットを記録し、

「泣かないで」
さらに、1959年12月にリリースした松尾和子さんとのデュエット「誰よりも君を愛す」も大ヒットとなると、翌年1960年の「第2回日本レコード大賞」を受賞し、三原さと志さんもたちまちブレイクを果たしたのでした。

「誰よりも君を愛す」
三原さと志は26歳~28歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」として「北上夜曲」「寒い朝」「島のブルース」がヒット
その後、「和田弘とマヒナスターズ」は、1960年代からは、女性歌手を迎えるスタイルを取ると、
- 1961年「北上夜曲」(多摩幸子さん)
- 1962年「寒い朝」(吉永小百合さん)
- 1963年「島のブルース」(三沢あけみさん)
など、ヒットを連発しています。

「寒い朝」
三原さと志は29歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」として「お座敷小唄」「愛して愛して愛しちゃったのよ」がミリオンセラーを達成
さらに、「和田弘とマヒナスターズ」は、1964年8月には、再び、松尾和子さんとのデュエット「お座敷小唄」が、当時としては異例の300万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、

「お座敷小唄」
続く、1965年6月にリリースした「愛して愛して愛しちゃったのよ」(田代美代子さん)も100万枚を売り上げる大ヒットとなり、前年の「お座敷小唄」に続いて2年連続のミリオンセラーを達成。

「愛して愛して愛しちゃったのよ」
こうして、マヒナスターズは、「ムード歌謡」の先駆けとして、都会的でジャジーなハワイアンテイストを取り入れた楽曲に、三原さと志さんの裏声を生かした歌唱と、和田弘さんのスチールギターの絶妙なコンビネーションで人気を博したのでした。
三原さと志は48歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」を脱退するも51歳の時に復帰していた
しかし、そんな「和田弘とマヒナスターズ」も、1967年に山田競生さんが脱退、1970年に松平直樹が脱退すると、1983年には三原さと志さんも脱退。
ただ、三原さと志さんは、1986年には復帰しています。
そして、1989年には 松平直樹さんと山田競生さんも復帰し、全盛期のオリジナルメンバー6名(和田弘さん、日高利昭さん、佐々木敢一さん、三原さと志さん、松平直樹さん、山田競生さん)が揃って、NHK紅白歌合戦に10回目の出場を果たしたのですが・・・
三原さと志は66歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」を再び脱退し新生「ザ・マヒナスターズ」を結成していた
1994年には 山田競生さんが退団し、白片修さんが加入すると、2001年には内紛が起こったそうで、12月31年に行われた演奏会を最後に、三原さと志さん、松平直樹さん、佐々木敢一さん、白片修さんの4名が「和田弘とマヒナスターズ」を脱退。
(円満に脱退したそうです)
その後、三原さと志さん(ボーカル)、佐々木敢一さん(裏声とウクレレ)、松平直樹さん、白片修さんの4名は、白片興さん(白片修さんの兄)と向坂卓人さんを加え、新たなグループ「ザ・マヒナスターズ」を結成すると、2003年5月には、「マハロ☆エコーズ」として、シングル「ブルースを囁いて」をリリース。
一方、和田弘さんと日高利昭さんも、数名を加えて、「和田弘とマヒナスターズ」として活動を再開したのですが・・・
(その後、日高利昭さんは退団しています)
和田弘さんが「マヒナスターズ」を商標登録して権利者となったことで、三原さと志さんらが「マヒナスターズ」の商標登録取消の申し立てをしたそうですが、登録維持と判定されています。
三原さと志の死因は?
そんな中、2003年7月、三原さと志さんは、脳梗塞で倒れて、芸能活動を休止し、復帰を目指してリハビリに励んでいたのですが、復帰は叶わず、
2006年9月30日、東京都世田谷区の病院で呼吸不全により、71歳で他界されています。
(ちなみに、2004年には、和田弘さん、2012年には、佐々木敢一と日高利昭さん、2022年には、松平直樹さんも他界されています)
「三原さと志の前妻は田辺靖雄の姉!子供(息子)は小山田圭吾!」に続く
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23歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」に加入すると、裏声を生かした独特の歌唱スタイルでリードボーカルを務め、「誰よりも君を愛す」で100万枚、「お座敷小唄」では300万枚の大ヒットを記録するなど、ムード歌謡の黄金期を築き …







