1957年、日本初のコーラスグループ「和田弘とマヒナスターズ」としてデビューすると、スチールギターと男声コーラスによる「マヒナサウンド」で音楽界に新しい風を吹き込み、「泣かないで」「誰よりも君を愛す」「お座敷小唄」などのヒットを連発して、都会的なムード歌謡のコーラスグループの先駆者として一世を風靡した、和田弘(わだ ひろし)さん。

そんな和田弘さんは、幼い頃からオルガンに親しみ、中学生の頃、「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」の演奏を聴いてスチールギターに夢中になると、専修大学予科(高校)に入学後は、学内バンド「リリーアイランダース」に加入し、本格的にバンド活動を始めたといいます。

今回は、そんな和田弘さんの、生い立ち(幼少期)、若い頃から死去までのヒット曲ほか経歴を時系列でご紹介します。

和田弘

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和田弘のプロフィール

和田弘さんは、1931年2月15日生まれ、
東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)の出身、

学歴は、専修大学中退、

だそうです。

和田弘は小学校低学年の時に両親にオルガンを買ってもらっていた

和田弘さんは、製本業を営むお父さんのもと、2人兄弟の次男として誕生すると、まだ字も読めない幼い頃からレコードを聴くことが好きだったそうで、

小学校低学年の時に、両親にオルガンを買ってもらうと、学校では、放課後にピアノを独学で練習したそうです。

和田弘は14~15歳頃に「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」の演奏を聴いてスチールギターに夢中になっていた

そんな和田弘さんは、戦後、銀座日本劇場で、ハワイアンバンド「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」の演奏を聴くと、ハワイアン音楽に心を奪われたそうで、

特に、スチールギターに夢中になり、ついには、スチールギターを自作するほどだったそうです。

和田弘は16歳の時に学内バンド「リリーアイランダース」に加入していた

その後、和田弘さんは、1947年、専修大学予科に入学すると、学内バンド「リリーアイランダース」に加入したそうですが、

(”予科”とは、旧制大学の学部に入る前段階として、旧制高等学校に設けられていた高等普通教育の課程のことを言うそうです)

2年生に進学する際、和田弘さんともう1人を残して全員卒業したため、和田弘さんが自らリーダーとなってバンドを再編成したそうで、

同じ頃、お兄さんの青山学院時代の同級生である浜口庫之助さんのもとに3ヶ月ほど通い、スチールギターの基礎を習ったそうです。

和田弘は22歳の時に山口銀次と「山口銀次とマヒナスターズ」を結成

また、和田弘さんは、1950年4月には、大学を中退して、「リリーアイランダース」も解散し、「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」にサイドギターとして参加したそうですが、

1953年には、「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」のメンバーだった山口銀次さんと鈴木揚介さんに誘われて脱退し、山口銀次さんと「山口銀次とマヒナスターズ」を結成して、スチールギターを担当したそうです。

和田弘は27歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」として「好きだった」がヒット

そして、翌1954年には、リーダーの山口銀次さんが脱退したことから、和田弘さんがリーダーとなって、「和田弘とマヒナスターズ」と改名し、

1957年、日本初のコーラスグループ「和田弘とマヒナスターズ」として、ファーストシングル「東京の人」(三浦洸一さんのカバー)でデビューすると、

同年、リリースした2枚目のシングル「好きだった」(鶴田浩二さんのカバー)がヒットを記録したのでした。

「好きだった」
「好きだった」

和田弘は27歳の時に「泣かないで」が大ヒット

そんな「和田弘とマヒナスターズ」は、「東京の人」と「好きだった」は共にカバー曲だったものの、後に「マヒナサウンド」と呼ばれるようになるハワイアンギターとコーラスによる新しいアレンジで注目されると、

1958年8月にリリースした、オリジナル曲「泣かないで」が、三原さと志さんの裏声を生かした男声コーラスと、和田弘さんの切ないスチールギターの音色の絡み合いが人々の心をつかみ、大ヒットしています。

「泣かないで」
「泣かないで」

和田弘は28歳の時に「誰よりも君を愛す」が大ヒット

さらに、「和田弘とマヒナスターズ」は、1959年、「夜霧の空の終着港」「グッド・ナイト」が、立て続けにヒットを記録すると、

同年(1959年)12月にリリースした松尾和子さんとのデュエット「誰よりも君を愛す」も大ヒットとなり、翌年1960年には、「第2回日本レコード大賞」を受賞したのでした。

「誰よりも君を愛す」
「誰よりも君を愛す」

和田弘は30歳~32歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」として「北上夜曲」「寒い朝」「島のブルース」がヒット

また、「和田弘とマヒナスターズ」は、1960年代からは、若手の女性歌手を迎え、デュエットというスタイルを取ると、

  • 1961年「北上夜曲」(多摩幸子さん)
  • 1962年「寒い朝」(吉永小百合さん)
  • 1963年「島のブルース」(三沢あけみさん)

など、ヒットを連発しています。

「北上夜曲」
「北上夜曲」

和田弘は33歳の時「和田弘とマヒナスターズ」として「お座敷小唄」が300万枚を売り上げる大ヒット

そんな「和田弘とマヒナスターズ」は、1964年8月にリリースした、「お座敷小唄」(松尾和子さんとのデュエット)が、300万枚という驚異的な売上を記録しています。

「お座敷小唄」
「お座敷小唄」

和田弘は34歳の時「和田弘とマヒナスターズ」として「愛して愛して愛しちゃったのよ」が100万枚を売り上げる大ヒット

そして、「和田弘とマヒナスターズ」は、続く、1965年6月にリリースした田代美代子さんとのデュエット「愛して愛して愛しちゃったのよ」も100万枚を売り上げる大ヒットとなっており、

(2年連続のミリオンセラーを達成を達成)

「愛して愛して愛しちゃったのよ」
「愛して愛して愛しちゃったのよ」

都会的な歌謡曲にジャズやハワイアンの要素を加えたムード歌謡のコーラスグループの先駆けとして活躍したのでした。

和田弘が70歳の時に「和田弘とマヒナスターズ」は解散

しかし、その後は、度々、メンバーの脱退や加入などを繰り返し、

1989年には、全盛期のオリジナルメンバー(日高利昭さん、佐々木敢一さん、三原さと志さん、松平直樹さん、山田競生さん)が再集結し、22年ぶりとなるNHK紅白歌合戦に10回目の出場を果たすも、

1994年には 山田競生さんが退団し、白片修さんが加入すると、2001年には内紛が起こり、12月31年に行われた演奏会を最後に、和田弘さんと日高利昭さん以外の、三原さと志さん、松平直樹さん、佐々木敢一さん、白片修さんの4名が「和田弘とマヒナスターズ」を脱退し、事実上、「和田弘とマヒナスターズ」は解散となったのでした。

和田弘は70歳頃に新生「和田弘とマヒナスターズ」として活動を再開していた

それでも、その後、和田弘さんは、日高利昭さんと共に、数名を新たに加え、新生「和田弘とマヒナスターズ」として活動を再開していたのですが、

和田弘さんが「マヒナスターズ」を商標登録したことで、脱退した元メンバーの三原さと志さんらに「マヒナスターズ」の商標登録取消の申し立てをされるなど、争いは続いたのでした。

(商標登録自体は維持されたそうです)

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和田弘の死因は?

そして、そんな中、和田弘さんは、2004年1月5日、腎臓疾患の治療のため、川崎市高津区にある病院に行ったそうですが、

待ち時間に、突然、不整脈を発症したそうで、直ちに治療が行われるも、その甲斐無く、同日午前9時15分、不整脈により、72歳で他界されたのでした。

お読みいただきありがとうございました

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