南こうせつさんに誘われ、1971年、「南こうせつとかぐや姫」(第二期「かぐや姫」)を結成すると、自身が作詞作曲した4枚目のシングル「僕の胸でおやすみ」が初のオリコンチャートにランクインし、続く、5枚目のシングル「神田川」で大ブレイクを果たした、山田パンダ(やまだ ぱんだ)さん。
今回は、そんな山田パンダさんの、若い頃(「かぐや姫」時代)から現在までの代表曲や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】山田パンダの若い頃は?デビューからシュリークス時代の代表曲や経歴を時系列まとめ!」からの続き
山田パンダは25歳頃、南こうせつから「第二期かぐや姫」加入を依頼されるも断っていた
1970年10月、FM東海(後のFM東京)の洋楽番組のDJに転身し、「シュリークス」を脱退していた山田パンダさんですが、
ある時、番組に、南こうせつさんがゲストとして来ると、それからほどなくして、南こうせつさんから自宅に電話があり、「南こうせつとかぐや姫」(「第二期かぐや姫」)への加入を依頼されたそうです。
ただ、山田パンダさんは、「シュリークス」で精一杯やったものの、なかなかブレイクを果たせず、もうグループでの活動には疲れていたことから、「ごめんな」と言って断ったのだそうです。
山田パンダは25歳頃、南こうせつからの3度目の電話で「第二期かぐや姫」への加入を決意していた
すると、約1ヶ月後、再び、南こうせつさんから、
僕は諦めていません
と、電話があり、この時も断ったそうですが、
3度目の電話があった際、迷っていると、奥さんに背中を押される形で、「南こうせつとかぐや姫」(「第二期かぐや姫」)への加入を承諾したのだそうです。
山田パンダは26歳の時に「南こうせつとかぐや姫」(第二期「かぐや姫」)としてシングル「青春」をリリース
その後、まもなく、山田パンダさんは、南こうせつさん、伊勢正三さんと共に「南こうせつとかぐや姫」(「第二期かぐや姫」)の結成式を高円寺のラーメン屋で行ったそうで、
(その席では、南こうせつさんに、最低でも3年は辞めないことを誓約させられたそうです)
1971年9月25日、26歳の時には、シングル「青春」をリリースしたのでした。
「青春」
山田パンダは28歳の時に作詞作曲した「かぐや姫」の4枚目のシングル「僕の胸でおやすみ」が初のオリコンチャートにランクイン
すると、1973年7月1日(山田パンダさん28歳)にリリースした4枚目のシングル「僕の胸でおやすみ」(山田パンダさんが作詞作曲)が、初めて、オリコンのシングル盤チャートにランクインしています。
「僕の胸でおやすみ」
山田パンダは28歳の時に「かぐや姫」の5枚目のシングル「神田川」が160万枚を売り上げる大ヒット
そして、1973年9月20日(山田パンダさん28歳)にリリースした5枚目のシングル「神田川」は、160万枚を売り上げる大ヒットを記録しているのですが、
実は、南こうせつさんが、パーソナリティーを務めていたラジオ番組「パックインミュージック」で、2枚目のアルバム「かぐや姫さあど」のB面1曲目だった「神田川」を何気なくかけたところ、
「僕の胸でおやすみ」を遥かに上回るリクエストカードが届き、週を追うごとに「神田川」のリクエストカードは日増しに増えていったそうで、
そんな状況に、レコード会社は、一刻も早く「神田川」をシングルで発売することを目論んだそうですが、リーダーの南こうせつさんが、なかなか首を縦に振らず、「僕の胸でおやすみ」がランクで上昇していることをほのめかし、レコード会社側を押しとどめていたそうで、
待たせに待たせ、「僕の胸でおやすみ」から2ヶ月後、ようやく「神田川」がシングルカットされると、瞬く間に「神田川」は大ヒットとなったのでした。
ちなみに、山田パンダさんは、「神田川」の大ヒットについて、
凄かったですよ、あの時は。フォーク系の曲は、その前に(吉田)拓郎の『結婚しようよ』とか出ていたけど、『神田川』は異常だった。ビューン!だもん
シュリークスからの流れの中で、僕は1位になるのは夢だったから、(「神田川」の大ヒットは)やはり嬉しかったね
と、語っています。
「神田川」
山田パンダは28歳の時に「かぐや姫」の6枚目のシングル「赤ちょうちん」が70万枚を売り上げる大ヒット
その後、「かぐや姫」は、1974年1月10日(山田パンダさん28歳)にリリースした6枚目のシングル「赤ちょうちん」も、70万枚を売り上げる大ヒットとなっています。
「赤ちょうちん」
(この「赤ちょうちん」から、グループ名が「南こうせつとかぐや姫」から「かぐや姫」に改名されています)
山田パンダは29歳の時に「かぐや姫」の7枚目のシングル「妹」が60万枚を売り上げる大ヒット
さらに、「かぐや姫」は、1974年5月20日(山田パンダさん29歳)にリリースした7枚目のシングル「妹」も、累計60万枚を売り上げる大ヒットとなっているのですが、
「赤ちょうちん」「妹」は秋吉久美子さん主演で映画化されており、山田パンダさんも、俳優として「妹」に出演しています。
「妹」
(「神田川」も、草刈正雄さん、関根恵子(現・高橋惠子)さん主演で映画化されています)
山田パンダが29歳の時に「かぐや姫」は解散
しかし、そんな人気絶頂だった中、「かぐや姫」は、1975年4月12日(山田パンダさん29歳)、「東京神田共立講堂」で行われたコンサートをもって解散しています。
山田パンダは29歳の時に「さよなら友よ」でソロデビューするとその後「風の街」「落陽」などをリリース
そんな中、山田パンダさんはソロに転向し、1975年4月5日、29歳の時には、ソロ第一弾シングル「さよなら友よ」をリリースすると、
「さよなら友よ」
その後も、
- 1975年6月23日(30歳)「風の街」
- 1976年4月25日(30歳)「欅並木」
- 1976年9月25日(31歳)「落陽」
- 1977年3月5日(31歳)「旅酔い唄」
- 1977年6月7日(32歳)「明日の恋人」
を、リリースしています。
山田パンダは32歳の時に渥美清に楽曲「浅草日記」を提供していた
また、山田パンダさんは、俳優としても活動し、
- 1974年「ヨイショ」
- 1975年「あこがれ共同隊」
- 1980年「天皇の料理番」
などに出演するほか、
1977年、32歳の時には、渥美清さんに楽曲「浅草日記」を提供しています。
「浅草日記」
山田パンダが30代の時には山本コウタローとのユニット「山本山田」ほか「SALLY」をプロデュース
そんな山田パンダさんは、ソロ活動以外にも、
- 1977年~1980年には、吉野恵子さん、山田智秀さんと「パンダフルハウス」を結成
- 1982年には、山本コウタローさんとユニット「山本山田」を結成
「山本山田」 - 1984年には、ロックバンド「SALLY」をプロデュース(1stシングル「バージンブルー」がヒット)
と、活動しています。
山田パンダの現在(70代)は?
その後、山田パンダさんは、主夫業に専念していたそうで、1993年、48歳の時には、「山田パンダの保父してみたら」を出版しているのですが、
これがきっかけとなり、全国から講演の依頼が殺到したそうで、以降、「子どもサポーター」として全国で講演活動を行っているそうです。
また、2015年1月15日には、児童養護施設などをサポートするための「きらきらら基金」を設立し、チャリティーCD「せいいっぱい」を発売すると、
その後も、半年に一度のペースでライブ活動を行うほか、ラジオ番組「山田パンダ素晴らしきフォーク世代」でパーソナリティーとしても活動しています。
「山田パンダの「風の街」はドラマ「あこがれ共同隊」の主題歌で吉田拓郎から提供されていた!」に続く
1975年、「かぐや姫」解散後、ソロとなると、ソロ2枚目のシングル「風の街」が12万枚を売り上げるヒットを記録した、山田パンダ(やまだ ぱんだ)さんですが、 実は、この「風の街」は、山田パンダさんが出演したテレビドラマ「 …