中学時代からのコミュニケーション障害を克服するため大学でアナウンス部に入部するも大恥をかいたことから、アナウンサーの専門学校「アナウンスアカデミー」に通うほか、深夜ラジオを夢中で聴き、アナウンサーの喋り方のマネをしつつ、話し方の訓練をしたという、吉田照美(よしだ てるみ)さんは、

大学卒業後、文化放送に入社すると、誰もやらない奇抜な企画で人気を博し、「セイ!ヤング」や「てるてるワイド」で若者から絶大な支持を集め、文化放送を代表する人気パーソナリティとなりました。

今回は、吉田照美さんの若い頃(文化放送入社~ラジオ時代)の経歴を時系列でご紹介します。

吉田照美

「吉田照美の生い立ちは?コミュニケーション障害も大学でアナウンス研究会!」からの続き

Sponsored Link

吉田照美は23歳の時に文化放送への入社が内定していた

吉田照美さんは、早稲田大学経済学部経済学科に進学しており、漠然と、大学卒業後は銀行に就職するだろうと考えていたそうですが、

結局、一般企業には就職活動をせず、受験できる放送局のアナウンサー試験をすべて受験すると、ニッポン放送と文化放送の最終面接に残ったそうですが、最終的に、ニッポン放送は落ち、文化放送から内定をもらったそうです。

ちなみに、文化放送の入社試験の試験官にみのもんたさんがいたそうですが、

吉田照美さんは、

入社試験のとき、第一次音声試験官がみのもんたさんで。僕より7年先輩の方なんですけど、その頃深夜放送聞いていたから、「あ、みのさんだ」って分かるんですよ。

それで何か短い文章を読んだ後に、みのさんが「吉田君、ラ行が弱いね」なんか言われて。

「これもう落ちたな」と思っていたら、補助でいる女子アナの人から「次は何月何日に来てください」って言われたんで、「あっ、受かっていたんだ」って。受かっているのにみのさんって嫌なこと言う人だなって(笑)。

と、語っています。

吉田照美は文化放送入社1年目は影が薄かった

こうして、吉田照美さんは、1974年4月、23歳の時、文化放送に入社したそうですが、

デスクの人から、

3年経ってもモノにならなかったらほかのセクションに異動になっちゃうから頑張れよ

と、言われたそうで、気ばかり焦ったといいます。

実際、当初は、短いスポットニュースなどの仕事や、番組と番組の間にコマーシャルが入った後、生で「今日は暑い1日でしたけど、どんな風にお過ごしでしたか?」などと喋るような仕事しか与えられなかったそうで、

かねてより憧れていた深夜番組を担当したいという希望も言い出せないまま、時間だけが過ぎていったのだそうです。

(入社して1年経った頃、廊下で先輩に声をかけられた際、名前を間違えられたそうで、これには、自分の存在感の薄さにとてもショックを受けたそうです)

吉田照美は文化放送入社1年目の終わり頃に「大相撲熱戦十番」の支度部屋のリポートを担当するもベテラン力士たちに相手にしてもらえなかった

そして、入社1年目が終わりかけていた頃、ようやく、「大相撲熱戦十番」の支度部屋リポートを任され、朝稽古から土俵に上がるまでを取材することになったそうですが・・・

社交性が低かったことから、ベテラン力士たちに相手にしてもらえなかったといいます。

それでも、ネタは持ち帰らなければならなかったため、吉田照美さんは、他局のリポーターがインタビューするのを後ろでこっそり聞き、自分なりに面白おかしくアレンジして伝えるなど、工夫したのだそうです。

吉田照美は24歳の時に「桂竜也の夕焼けワイド」のリポーターに抜擢されると奇抜な企画で人気を博していた

そんな中、吉田照美さんは、「桂竜也の夕焼けワイド」という番組で、大学時代の先輩が軽妙でちょっとおバカなことをやっていたのを見て、「ああいうのやれたらな」と遠い目で見ていたそうですが、

やがて、その先輩が、家の事情で故郷の富山県に帰らなくてはいけなくなったそうで、急遽、吉田照美さんが、先輩の後釜に抜擢され、1975年、「桂竜也の夕焼けワイド」の外中継コーナー「夕焼けトピッカー」のリポーターを担当することになると、

吉田照美さんは、

  • 電車の中でいきなりみそ汁を食べ始めて乗客の様子をうかがったり
  • オペラを唄いながら商店街を歩いたり
  • 女性とデートしたり
  • 目隠しをしながら腰に手拭いを巻いて銭湯の女湯に潜入したり

と、誰も恥ずかしくてやらない、それでいてラジオを聴いているリスナーが笑い転げるような、奇抜な企画を数多く展開し、人気を博したのでした。

吉田照美は27歳の時に深夜放送「セイ!ヤング」のパーソナリティーで人気を博していた

そして、1978年4月、27歳の時には、念願だった深夜放送「セイ!ヤング」のパーソナリティーに抜擢されたそうですが・・・

その裏番組は、当時、大人気だった「タモリのオールナイトニッポン」だったそうで、吉田照美さんは、これを知り、愕然としたそうです。

ただ、

どうせ誰も聴いていないだろうから、自分のやりたいことをやろう

と、開き直り、

「夕焼けワイド」の時よりも、もっと、誰もやらない思い切った企画を展開すると、次第にリスナーも増え、番組自体が深夜放送の新しいモデルケースとなるなど、期待以上の成功を成し遂げることができたのだそうです。

ちなみに、「セイ!ヤング」では、

  • 「不良少年探偵団」
  • 「照美の独身貴族四畳半」
  • 「今週のおすすめポルノ」

などの企画を敢行したそうですが、

中でも、東大の合格発表日に受験生を装って胴上げをする企画は、実際の合格発表風景としてニュースで報道され、大きな話題になったそうです。

Sponsored Link

吉田照美は29歳の時に「吉田照美の夜はこれから てるてるワイド」のパーソナリティーで人気を博していた

そんな吉田照美さんは、1980年には、「吉田照美の夜はこれから てるてるワイド」(1980年10月6日放送開始)のパーソナリティーに抜擢されると、

この番組では、若者向けの夜ワイド番組として、「松田聖子のピンクのスニーカー」「マッチとデート」など、当時の人気アイドルがコーナーを担当し、リスナー参加型の企画が多数展開されたほか、女子高生や女子大生がバスルームで録音したテープを送る企画など、親密感のある内容が特徴だったことから、

「ノッてる」「ウケてる」など、若者の感覚に合った軽快な番組作りが支持され、首都圏の中高生を中心に絶大な人気を博したそうで、

この成功により、吉田照美さんは文化放送を代表する人気パーソナリティとしての地位を確立したのでした。

「【画像】吉田照美の若い頃(文化放送退職後)から現在までの経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link