父親が早くに亡くなり、やがて母親も再婚して、伯父夫妻に預けられるも、叔父夫妻に可愛がられ、何不自由なく育ててもらっていたという、やなせたかしさんですが、
多感な時期だったやなせたかしさんは、実の両親に甘えられず、所詮は他人の家に居候している状況に自暴自棄となり、自殺未遂や家出をするなど、荒れた時期があったといいます。
今回は、そんなやなせたかしさんの生い立ち(旧制中学校時代から東京高等工芸学校工芸図案科進学まで)をご紹介します。

「やなせたかしは幼少期に父親が死去し母親の再婚で伯父夫婦に預けられていた!」からの続き
やなせたかしは旧制中学時代には漫画投稿コーナーに投稿するようになっていた
幼い頃から絵を描くことが好きだったというやなせたかしさんは、旧制中学校に入学後は、雑誌の漫画投稿コーナーに作品を投稿するようになると、何度も入選したそうで、
(当時の「旧制中学校」は5年制で、現在の中学校3年間と高校2年間の計5年間に相当)
旧制中学3年生の時には、新聞の漫画コンクールで一等に輝き、賞金10円(現在の貨幣価値で約5万円)を獲得したこともあったそうです。
(やなせたかしさんは、賞金10円のうち、3円は弟の千尋さんにお小遣いとして渡したそうです)
やなせたかしは旧制中学時代には自殺未遂していた
その一方で、やなせたかしさんは、中学に入った途端、成績が落ち(特に数学が苦手だったそうです)、初恋の人に失恋するほか、
(小学校時代は遊んでいても成績優秀で、首席で小学校を卒業したそうです)
伯父夫婦宅に預けられている身で甘えられない寂しさに、自暴自棄となって毎日を過ごしていたそうで、
ある夜には、家を飛び出して、あてもなく歩き始め、ふと気がつくと線路にたどり着き、そのまま線路に横たわって目を閉じたこともあったといいます。
ただ、やがて、電車の汽笛の音が鳴り響き、線路を伝う振動が大きくなると、我に返り、線路の外に転がり出て、こっそり夜中の3時に帰宅したそうです。
(帰宅後、やなせたかしさんの姿を見た伯母さんは泣き崩れ、伯父さんは「よく帰ったな」と言ってくれたそうですが、それ以上は何も言われなかったそうです)
やなせたかしは旧制中学時代には家出をしたこともあった
また、別の日には、家出をし、製材所の材木の間に隠れていたそうで、そのうち、騒ぎが大きくなり、自分の名前を呼んで探している声がどんどん増えていったそうで、怖くなり、なおさら出られなくなったこともあったそうです。
やなせたかしは旧制中学時代、絵を描くことで暗い気持ちを乗り越えていた
ただ、そんな中、やなせたかしさんは、伯父さんの家にある本を片っ端から読むほか、雑誌を読み、特に挿絵を見ることも好きだったことから、大好きな絵を描くことでなんとか乗り超えることができたそうで、
やなせたかしさんは、
ぼくは絵が好きな少年だったから挿絵も夢中になってみました。挿絵の黄金時代でしたね。天才、鬼才がずらりと渾身の力作を競い合って壮観でしたね
と、語っています。
(伯父さんは読書家で、家にはたくさんの本があったそうです)
ちなみに、やなせたかしさんは、雑誌の中では、特に「少年倶楽部」が好きで、挿絵画家では、剣劇と殺陣の挿絵が秀逸だった伊藤彦造さんや武者絵を得意とした山口将吉郎さんらの絵に衝撃を受けたそうです。
やなせたかしは伯父から医師を勧められるも絵に関係する学校に進みたいと思っていた
そして、進路を決める時期が近づくと、医師である伯父さんからは医師になることを勧められたそうですが、
勉強しなければいけない学問(数学や英語など)が苦手だったことに加え、開業医をしていた伯父さんが、毎晩、晩酌をして寝たかと思うと、起こされて患者の診察に行く姿を見ていたことから、医者にだけはなりたくないと思い、絵に関係する学校に進みたいと思うようになったそうで、
思い切って、伯父さんに、絵の道に進みたいと言うと、
伯父さんは、
田舎の中学で、絵が少し上手なくらいでは、食べていけないだろう。だが、図案(デザイン)を学べば、なんとかなるかもしれない
と、アドバイスしてくれたそうで、
やなせたかしさんは、図案のことなど何も分からなかったそうですが、伯父さんのアドバイスに従い、旧制中学校(現在の中学校3年間と高等学校2年間の計5年間に相当)卒業後、美術系の学校を3校受験すると、東京高等工芸学校工芸図案科(現在の千葉大学工学部)に合格したそうで、
1937年4月、18歳の時、東京高等工芸学校工芸図案科に入学するために上京したのだそうです。
やなせたかしは18歳の時に東京高等工芸学校工芸図案科(現・千葉大学工学部)に入学していた
すると、東京高等工芸学校工芸図案科(現在の千葉大学工学部)は、とても自由な校風の学校で、
担任の先生からは、
銀座を歩きなさい。学校で学ぶよりも感性が磨かれる
と、言われたそうで、
やなせたかしさんは、「勉強」と称し、毎日のように銀座を歩き回り、カフェや映画鑑賞を楽しむ日々を送っていたそうで、
やなせたかしさんは、
図案科の実習は、学期の初めに先生が「今学期の課題はこうだ」と言うと、あとは全然来ないの。後で考えると、それでよかったんです。
デザインは教える必要ないんですよ。本人がやればよくなるし、やらなきゃできないだけの話。自主的にやるしかない。
と、語っています。
(伯父さんは、養子でもなく、ただ預かっていただけのやなせたかしさんのために学費や生活費を出してくれたそうで、そのおかげで、やなせたかしさんは、何不自由なく学校生活を送ることができたそうですが、そんな伯父さんも、1940年3月、やなせたかしさんが卒業制作をしている最中に危篤となり、急いで卒業制作を仕上げて帰るも、間に合わず、50歳で他界されたそうです)
「やなせたかしの若い頃(会社員時代から独立してフリーの漫画家になるまで)は?」に続く
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1940年、21歳の時、田辺三菱製薬の宣伝部に就職するも、すぐに徴兵されて中国へ従軍し、復員後は高知新聞社を経て三越百貨店で勤務すると、 1953年、34歳の時には、フリーの漫画家として独立し、「困った時のやなせさん」と …







