戦争の経験から、愛や正義を、漫画、童謡、デザインなど多岐にわたる分野で表現し、国民的アニメ「アンパンマン」や、長きに渡り歌い継がれている「手のひらを太陽に」を生み出した、やなせたかしさん。

そんなやなせたかしさんは、5歳の時にお父さんが他界し、弟さんが伯父さん夫婦に養子に出されて、お母さんとおばあちゃんの3人暮らしとなると、7歳の時には、お母さんが再婚し、やなせたかしさんも弟さんのいる伯父さん夫婦に引き取られたそうですが、お父さんやお母さんがいない寂しさを、大好きな絵を描くことで紛らわせていたといいます。

今回は、やなせたかしさんの生い立ち(幼少期から小学校時代まで)をご紹介します。

やなせたかし

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やなせたかしのプロフィール

やなせたかしさんは、1919年2月6日生まれ、
高知県香美郡香北町在所村朴ノ木(現在の高知県香美市香北町)の出身、
(東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)生まれ)

学歴は、
後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)
⇒高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)
⇒官立旧制東京高等工芸学校工芸図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)卒業

だそうです。

やなせたかしの本名は?

やなせたかしさんの本名は、「柳瀬嵩」(読み方同じ)というそうですが、

中国に留学したことがあり、中国を愛していたお父さんにより、中国河南省にある名山「嵩山(すうざん)」から名付けられたそうです。

やなせたかしの父方の実家は江戸時代から300年続く庄屋で由緒ある家柄だった

やなせたかしさんの父方の実家は、香美郡在所村(現在の高知県香美市)に江戸時代から300年続く庄屋で、さらには、伊勢平氏の末裔だそうで、地元にある旧家の中でも指折りの由緒ある家柄だったそうですが、やなせたかしさんのお父さんの時代には、裕福ではなかったそうです。

ちなみに、やなせたかしさんのお父さんの清さんは、成績優秀で、名門・高知県立第一中学校(現在の高知県立追手前高校)を卒業後、上海の東亜同文書院(日本の高等教育機関)に県費で留学すると、

その後は、日本郵船の上海支店に2年ほど勤務した後、講談社に転職し、雑誌「雄辯」で編集者を務めていたそうですが、清さんは、中国語が堪能なうえ、文才、画才にも恵まれ、さらには、テニスと水泳も堪能と、文武両道だったといいます。

やなせたかしは4歳頃に父親の転勤先の上海に渡っていた

やなせたかしさんは、講談社の編集者だったお父さんの清さんと、豪農の大地主・谷内家の次女だったお母さんの登喜子さんのもと、東京で誕生したそうですが、

お父さんは、やなせたかしさんが誕生した翌年の1920年、東京朝日新聞社に引き抜かれ、1923年、特派員として単身で上海に渡ったそうで、その後、一家もお父さんの後を追って上海に移住したそうです。

そして、上海では、2歳年下の弟の千尋さんが誕生したそうですが、ほどなくして、お父さんは、アモイ(中華人民共和国福建省南部の都市)に転勤となり、お父さんが単身赴任を選んだことから、やなせさんたち一家は東京に戻ったそうです。

やなせたかしは5歳の時に父親が急死していた

その後、やせさたかしさんは、東京で、お母さんと弟の千尋さんの3人で暮らしていたそうですが、1924年、やなせたかしさんが5歳の時、お父さんがアモイで31歳という若さで急死してしまったそうで、

やなせたかしさんのお母さんが、お父さんの縁故を頼り、高知県高知市に移住すると、弟の千尋さんは、伯父の柳瀬寛さん(父・清さんの兄)夫妻の養子となって引き取られ、

(柳瀬寛さんは、高知県内の御免町(現・南国市御免町)の開業医だったそうですが、妻・キミさんとの間に子供がいなかったことから、千尋さんが養子になることはもともと決まっていたそうです)

やなせたかしさんは、高知市内で、お母さんとおばあちゃんの3人暮らしをすることとなったそうです。

やなせたかしは7歳の時に母親の再婚により伯父夫婦に預けられていた

そんなやなせたかしさんは、貧しいながらも、お母さんとおばあちゃんに大切にされて育ったそうですが、

それから2年後、7歳の時には、お母さんが再婚することとなり、やなせたかしさんは、弟の千尋さんが養子となった、御免町の伯父・柳瀬寛さんのもとに引き取られたそうです。

すると、伯父さん夫婦はとてもいい人で、やなせたかしさんにも愛情を注いでくれ、やさしく接してくれたそうで、やなせたかしさんも、そんな伯父夫婦を「お父さん、お母さん」と呼んだそうですが、

養子となった弟の千尋さんが奥座敷で伯父夫妻と川の字になって寝ているのに対し、養子にはならなかったやなせたかしさんは、玄関横の書生部屋で、やなせたかしさんの叔父で中学生の正周さん(寛さんや清さんの年の離れた末弟)と一緒に寝起きするなど、わずかながら、千尋さんとの扱いの差を感じ、かすかに寂しさを感じたそうで、

やなせたかしさんは、自身の幼少期について、

僕は、おとなしい子どもだったんですよ。前列に出たがる子と、後列にいたい子がいますね。僕は後列にいたい、目立ちたくないという性質で、僕のむかしを知る人には、「すごくはにかみ屋だったのに変わったね」と言われます。

弟がいて、弟はとても明るい性格だったんですけど、僕はちょっと暗めだった。容貌に対する劣等感とか、いろいろなものがあって、あまり人前に出たくないという気持ちが強かったんです。どちらかというと、一人で遊んでいるタイプ。絵を描いたりして遊んでいることのほうが多かったですね。

でも田舎で育ったのでやっぱり、その辺の野っ原を飛び歩いたり、木に登ったり、川で泳いだりはしましたけど。つらいこともあったけど、絵を描いている時はうれしくてね、絵を描いていることで救われたというかな、……そういうことじゃないのかな。

と、語るほか、

「つらいこと」について、

父は、僕が5歳の時に亡くなったんです。それからしばらく母と暮らしていたんだけど、母が再婚するのでおじの家に預けられたんですよ。

おじは内科小児科の医者をしていて、とてもいい人だったんですけども、それでもやっぱり、ほんとの自分の父親がいない、母親もいないというのは、ちょっと寂しいんですよ。思いっきり甘えたいのに、その時にいないということですから。

それで遠慮がちになるんですね。お金をあまり使わせちゃ悪いとか、考えるようになるわけ。他のうちへ行くと、お父さんと一緒にいろいろやっているけど、うちにはそれがない。それがちょっと、つらかったですね。

でも僕は絵を描いたり、本を読んだりするのは好きだったんで、それでなんとか、寂しさから救われたんじゃないのかなと思います。とにかく本は、よく読んでいました。

と、語っています。

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やなせたかしは小学校2年生の時には転校先の小学校で絵がうまいことがクラス中に知れ渡っていた

こうして、小学校2年生の途中で伯父さんの家に移り住んだやなせたかしさんは、転校先では、成績優秀も運動が苦手だったことから、目立った存在ではなかったそうですが、

その一方で、絵を描くことが上手だったことから、やなせたかしさんの絵が上手なことは、あっという間にクラス中に知れ渡ったそうで、

同級生たちには、

お嫁さんを描いて

ぼくは軍艦の絵!

と、次から次へと絵を描くよう頼まれたのだそうです。

「やなせたかしの生い立ちは?伯父夫妻に可愛がられるも自殺未遂&家出していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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