少年漫画誌において、お色気・暴力・ギャグといった独自の作風を確立するだけでなく、現在では当たり前となっている、”乗り込み型ロボット”や”合体ロボット”の概念を初めて確立し、今もなお、多くのアニメーターに影響を与え続けている、永井豪(ながい ごう)さん。
そんな永井豪さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、永井豪さんの、妻との馴れ初め、結婚後の夫婦仲、子供についてご紹介します。

「【画像】永井豪の若い頃から現在までの代表作品(漫画・アニメ)や経歴は?」からの続き
永井豪の妻との馴れ初めは?
永井豪さんは、1982年9月26日、肥後純子(ひご すみこ)さんと結婚しています。
1976年、永井豪さんは、高校の同級生から、人形劇団の設立に当たり、相談を受けたそうで、
当時、永井豪さんは、少年漫画の連載を数多く抱えていて、低年齢層向けのエンターテインメントに興味があり、舞台の仕事にも楽しさを感じていたことから、人形劇団「どんがら座」のスポンサーを引き受けたそうですが、
劇団の宣伝のため、報知新聞のデスクだった同級生に相談すると、その同級生が自身の後輩に相談してくれ、その後輩の男性がコラムを執筆する女性ライターを紹介してくれたそうですが、この人が、後に奥さんとなる、肥後純子さんだったそうです。
永井豪の妻は自立したキャリアウーマンかつ占い師だった
さておき、永井豪さんは、取材にやってきた純子さんを一目見て、
うわあ、きれいな人だなあ
と、純子さんの美しさに驚いたそうですが、
それだけでなく、純子さんは、永井豪さんの人形劇団を、新聞のコラムだけでなく、自身がレポーターを務めるテレビ番組でも紹介してくれ、
しかも、当時、「ハレンチ学園」の作者として”子供の教育上よくない漫画を描く人”と悪名高かった永井豪さんを、
実は子供たちのためにかわいらしい人形劇団を立ち上げようとしている
という温かい視点で紹介してくれたのだそうです。
そこで、永井豪さんは、感謝の気持を込めて、純子さんと純子さんを紹介してくれた報知新聞の同級生の後輩を食事に招待したそうですが、
その席で、純子さんが多忙な日々を送る自立したキャリアウーマンであること、また、霊感が強く、別のペンネームで「占い師」をしていることを知ったそうで、
永井豪さんは、
自分とは違う世界の人だ
と感じながらも、純子さんに親近感を覚えたのだそうです。
永井豪は妻に相談にのってもらううちに惹かれていた
また、永井豪さんは、この時、恋愛で悩んでいたそうで、純子さんが占い師であることから、相談にのってもらおうと、3人で食事をした1~2週間後に、今度は2人きりで会い、どうしたらいいかを占ってもらったそうですが、
純子さんは、親身に相談にのってくれ、的確にアドバイスをくれたそうで、次第に、永井豪さんは心を許し、それからも頻繁に純子さんと会うようになったそうで、
いつの間にか、当初の相談内容はどうでもよくなり、純子さんに惹かれている自分に気づいたのだそうです。
永井豪の妻との出会いは同級生による計画的なものだった
ちなみに、純子さんとの出会いは、同級生たちによる「仕事ばかりしている永井にいい女性を紹介しよう」という計画的なものだったそうですが、
永井豪さんも純子さんもその事実を知らないまま、
霊感が強い純子さんは、初めて永井豪さんを見た瞬間に、
この人と結婚する
と、直感し、
永井豪さんもどんどん純子さんに惹かれていったのだそうです。
永井豪と妻の夫婦仲は良好
こうして、結婚した永井豪さんと純子さんですが、純子さんは、結婚後、スパッと会社を辞めたそうで、
純子さんのことを、仕事と家庭を両立させるタイプだと思っていた永井豪さんは、後に、なぜ仕事を辞めたのか尋ねると、
純子さんは、
会った瞬間に、この人を一生支えないと
と、直感して、永井豪さんをケアすることに専念しようと思ったことを打ち明けたといいます。
実際、純子さんは、永井豪さんのスケジュールを、全部、マネージャーに聞いてカレンダーに書き込み、それに合わせて自分の予定を組み、
永井豪さんの仕事が順調に進むことを最優先に、あれこれ気を配ってくれるほか、永井豪さんのファンとの交流などのフォローもやってくれたそうで、
永井豪さんは、まるで、奥さんと専属の秘書を同時に手に入れた感覚になったのだそうです。
永井豪の子供は?
そんな永井豪さんと純子さんのお子さんですが、永井豪さんは、子供に関して何も明かしていないため、いるかどうかは不明です。
また、もし、子供がいたとしても、永井豪さんは、公私の区別をはっきりしていることから、子供は、漫画家や芸能関係者ではないと思われます。
さて、いかがでしたでしょうか。
永井豪さんの、
- 永井豪の生い立ちは?幼少期に手塚治虫に衝撃!予備校を辞め漫画家を志していた!
- 永井豪のプロフィール
- 永井豪を妊娠中の母親は上海からの引揚船に乗り命がけで帰国していた
- 永井豪が幼い頃は慎重で用心深い子供だった
- 永井豪は3~4歳の時に手塚治虫の漫画を初めて読み衝撃を受けていた
- 永井豪は小学生の時に漠然と漫画家になることを決めていた
- 永井豪は高校進学後に本格的に漫画を描き始めていた
- 永井豪は高校卒業後は大学受験に失敗し予備校に通っていた
- 永井豪は予備校時代に死への恐怖を体験し漫画家になる決意を固めていた
- 永井豪は下積時代に石ノ森章太郎のアシスタントを1人で務めていたことがあった!
- 永井豪は21歳頃に手塚治虫に漫画を見てもらおうと訪ねるも会えなかった
- 永井豪は21歳頃に石ノ森章太郎に漫画を見てもらっていた
- 永井豪は21歳頃に石ノ森章太郎のアシスタントになっていた
- 永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントを始めた当初は楽しく働いていたが・・・
- 永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントになって3ヶ月後、職場環境が激変していた
- 永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントを1人になっても続けた理由とは
- 永井豪は過酷な1人アシスタント時代を様々な工夫で乗り切っていた
- 永井豪はアシスタントが増えた後も多忙を極めていた
- 永井豪のアシスタント時代は食事や風呂の時間もほとんどなく体重も激減していた
- 永井豪は石ノ森章太郎に対し仕事への執念を感じていた
- 「【画像】永井豪は若い頃(デビュー直後)赤塚不二夫に連載を打ち切られていた?」
- 永井豪は21歳頃、漫画家デビューするためギャグ漫画を描くことを思いついていた
- 永井豪は21歳頃にギャグ漫画「それいけスイート」を出版社に売り込むも反応は良くなかった
- 永井豪は21歳頃にギャグ漫画「それいけスイート」が雑誌「ぼくら」に掲載される可能性を告げられていたが・・・
- 永井豪は21歳頃に初の連載作品「ちびっこ怪獣ヤダモン」が決定していた
- 永井豪は22歳の時に「目明しポリ吉」で漫画家デビュー
- 永井豪は石ノ森章太郎に辞めていいと言われるまでアシスタントを続けるつもりだった
- 永井豪は22歳の時に初の連載漫画「じん太郎三度笠」が赤塚不二夫の抗議で打ち切りにされていた?
- 永井豪は赤塚不二夫の嫉妬により「じん太郎三度笠」が打ち切りになったと考えていた
- 【画像】永井豪の若い頃から現在までの代表作品(漫画・アニメ)や経歴は?
- 永井豪は23歳の時には「ハレンチ学園」で社会現象を巻き起こす大ヒットを記録していた
- 永井豪は24歳の時に「あばしり一家」、25歳の時に「ガクエン退屈男」を発表
- 永井豪は25歳~26歳の時に「鬼-2889年の反乱-」「くずれる」「ススムちゃん大ショック」を発表
- 永井豪は27歳の時に「デビルマン」が大ヒットを記録
- 永井豪は27歳の時に初の乗り込み型ロボット「マジンガーZ」が空前の大ヒットを記録
- 永井豪は28歳の時に「ドロロンえん魔くん」が大ヒット
- 永井豪は28歳の時に「キューティーハニー」が大ヒットし社会現象を巻き起こしていた
- 永井豪は29歳の時に「ゲッターロボ」で合体ロボットのジャンルを確立していた
- 永井豪の現在(80代)は?
- 永井豪の漫画作品一覧
- 永井豪の妻との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?
- 永井豪の妻との馴れ初めは?
- 永井豪の妻は自立したキャリアウーマンかつ占い師だった
- 永井豪は妻に相談にのってもらううちに惹かれていた
- 永井豪の妻との出会いは同級生による計画的なものだった
- 永井豪と妻の夫婦仲は良好
- 永井豪の子供は?
について、ご紹介しました。
日本に漫画文化が深く根付く前から、「ハレンチ学園」や「デビルマン」といった、それまでの常識を覆す作品を次々と生み出し、漫画という表現媒体の可能性を大きく広げ、後世のクリエイターたちに多大な影響を与えてきた永井豪さん。
そんな永井豪さんは、80代となった現在も、過去作品の復刻や監督作業など活動を続けており、その飽くなき創造力は、まだまだ尽きそうにありません。
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1967年、22歳の時、ギャグ短編漫画「目明しポリ吉」で漫画家デビューすると、1968年には、新創刊された「少年ジャンプ」(後の「週刊少年ジャンプ」)に連載した「ハレンチ学園」が社会現象を巻き起こすほどの大ヒットを記録し …







