1968年、梶原一騎(当時・高森朝雄)さんとタッグを組んだボクシング漫画「あしたのジョー」が、社会現象を巻き起こし、一躍、人気漫画家の地位を不動のものにした、ちばてつやさん。

そんなちばてつやさんは、2歳の時に、お父さんの仕事の都合で満洲に渡るのですが、太平洋戦争敗戦後の7歳の時、暴徒化した中国人から逃れるため、隠れ家として身を置いていた狭い屋根裏部屋で、退屈でぐずる弟たちのために物語を作ってイラストを描いたところ、弟たちが目を輝かせて喜んでいるのを見て、描く喜びを知ったそうで、

終戦から1年後、帰国すると、8歳の時には、道端に落ちていた漫画を読んで、漫画の魅力に引き込まれると、自分でも漫画を描くようになったそうで、17歳の時には、貸本屋書店「日昭書店」で漫画家を募集しているのを見て、「日昭書店」を訪ねて行き、本格的に漫画を描き始めたといいます。

今回は、ちばてつやさんの、生い立ち(幼少期から貸本屋書店「日昭書店」で本格的に漫画を描き始めた頃まで)をご紹介します。

ちばてつや

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ちばてつやのプロフィール

ちばてつやさんは、1939年1月11日生まれ、
東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)の出身、

本名は、千葉徹彌(読み方同じ)、

学歴は、
墨田区立小梅小学校
⇒日本大学第一高等学校卒業

ちなみに、ちばてつやさんは、4人兄弟の長男なのですが、弟さん3人は全員、漫画に携わっていたそうです。

(俳優の千葉哲也さんは赤の他人です)

ちばてつやは2歳の時から父親の仕事の関係で満洲で暮らしていた

ちばてつやさんは、印刷会社に勤める父・正彌さんのもと、1939年1月、4人兄弟の長男として誕生したそうですが、

お父さんの仕事の関係で、この年の11月に、朝鮮半島に渡ると、1941年1月、ちばてつやさんが2歳の時には、満洲に渡り、奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)という所で暮らしたそうです。

ちばてつやは6歳の時、暴徒と化した中国人から逃げるため、安全な場所を求めて転々としていた

しかし、1945年、6歳の時、満洲を支配し続けていた日本の戦況が行き詰まり、中国人の間に、日本の敗戦が濃厚であることが徐々に伝わっていくと、それまで、優しくしてくれていた中国人たちの態度が急に冷たくなっていったそうで、

同年8月15日、日本が敗戦すると、中国人たちは、日本からの支配やそれまでの日本人に対する反発などから、奉天の街の中で暴動を起こし始めたそうです。

そんな中、命の危機を感じたお父さんは、中国人たちが寝静まった頃合いを見計らって、より安全な場所を求めて社宅を抜け出すことに決めたそうで、ちばてつやさんの一家は安全な場所を求めて歩き回ったそうですが、なかなか見つからなかったそうです。

ちばてつやは6歳の時に弟たちのためオリジナルの物語を作ってイラストを描いていた

そんな中、偶然、お父さんの会社の同僚だった中国人の徐集川さんに再会し、徐集川さんの自宅の物置の屋根裏に長期間かくまってもらったそうですが、

幼い弟たちは、明かり取りの小さな窓があるだけの狭い屋根裏部屋の生活に退屈でぐずり始めたそうで、ちばてつやさんが、お母さんに頼まれ、オリジナルの物語を作ってそこにイラストを描き始めると、弟たちは大喜びしたそうで、ちばてつやさんは、弟たちを喜ばせたい思いから、次々と新しい物語を作ったのだそうです。

ちばてつやは8歳の時、初めて漫画を読みカルチャーショックを受けていた

そして、太平洋戦争終戦から約1年後、ようやく、ちばてつやさん一家は、満洲から帰国したそうですが、

ちばてつやさんは、小学3年生(8歳)の時、道端に落ちていた豆本サイズの漫画を拾ったそうで、漫画を読むのは初めてだったそうですが、わかりやすくて読みやすく、ワクワクする、その世界に引き込まれたそうで、

そんな漫画の表現力に圧倒され、こんな物語の紡(つむ)ぎ方があったのかと、カルチャーショックを受けたのだそうです。

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ちばてつやは17歳の時に本格的に漫画を描き始めていた

そんなちばてつやさんは、やがて、(教育熱心だったお母さんの目をかいくぐり)勉強しているふりをして、こっそり、自分でも漫画を描き始めると、

17歳の時には、「児童漫画家募集(東京・神田の日昭書店)」という新聞の三行広告を見つけ、日昭書店を訪ねたところ、

社長の石橋国松さんに、漫画の基本的な描き方を教えてもらい、試しに描いてくるように言われたそうで、本格的に漫画を描き始めたのだそうです。

「【画像】ちばてつやの若い頃は?デビューから現在までの作品や経歴を時系列まとめ!」に続く

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