太平洋戦争敗戦後、暴徒と化して暴れまわる中国人から逃れるべく、転々とする中、お父さんの会社の同僚だった中国人の徐集川さんに、自宅の物置の屋根裏で長期間かくまってもらったという、ちばてつやさんは、そんな暮らしの中、まだ幼少でぐずる弟たちのため、漫画を描き始めたといいます。

「ちばてつやは幼少期は父親の仕事で満州国で暮らしていた!」からの続き

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履いていた軍靴の釘が足に刺さって思うように歩けなくなり、印刷工場の一団とはぐれていた

敗戦後、暴徒と化した中国人の襲撃から逃がれるため、住んでいた社宅を出て、安全な場所を求めて転々としていたという、ちばさん一家ですが、社宅を出発して数日後、ちばさんが、履いていた革靴の釘が足に刺さり、思うように歩けなくなってしまったそうで、そのため、ちばさん一家は、印刷工場の一団とはぐれてしまったそうです。

父親の同僚で中国人の徐集川に偶然再会し、かくまってもらっていた

ただ、暗闇の中、お父さんの友人で同僚だった中国人の徐集川(じょ しゅうせん)さんと偶然再会すると、徐さんは、ちばさん一家6人全員を、自宅の物置の屋根裏に長期間かくまってくれたそうで、

ちばさんは、お父さんと徐さんの関係について、

徐さんは親父の工場で一緒に働いていた中国人。昔から親父と気が合ったみたいで、何年も前からうちに遊びに来て一緒に食事をしたり、出かけたりしてたんですよ。

二人とも競馬と酒が好きだったから、一緒に遊びに行ってたんだろうね。本を貸し合ったり、漢詩を読み合ったりもしていたようです。

父の会社には中国やモンゴル、朝鮮の人もいて、社宅で一緒にご飯を食べるなどして仲良しでした。『日本人だから支配者』なんて気持ちは全くなくて、同じ社員という感覚で付き合っていました

と、語っています。

狭い屋根裏部屋では母親と弟たちと共に退屈な毎日を過ごしていた

こうして、ちばさんは、しばらくの間、明かり取りの小さな窓があるだけの狭い屋根裏部屋で、お母さんと乳飲み子の末弟、遊び盛りの弟2人と過ごしたそうですが、

(お父さんは、徐さんの仕事を手伝うため、日中は不在だったそうです)

逃避行の中で、社宅から持ち出せた本は2冊だけだったため、すぐに読み飽きてしまい、また、弟たちも退屈のあまりぐずり出したそうで、ある日のこと、困ったお母さんに、「徹弥(てつや)、あんたが何かお話してやりなさい」と、言われたのだそうです。

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退屈でぐずる弟たちのためにオリジナルの物語を作ってイラストを描いていた

そこで、絵を描くことが得意だったちばさんは、今まで読んだ多くの物語を適当につなぎ合わせてオリジナルの物語を作り、それに合う挿絵を描くと、弟たちは大喜びしたそうで、すぐに次の作品をせがまれ、その後も、何度か同じように物語を作って絵を描いたそうですが、

目を輝かせながら熱心に次回作をリクエストしてくる弟たちの姿を見ているうち、ますます弟たちを楽しませてあげたいという気持ちが募り、薄暗い屋根裏部屋で次から次へと新しい物語を作ったそうで、

ちばさんは、

弟たちが喜んでくれるのを見ているとね、人に喜んでもらえるのは本当に楽しいもんだなって感じましたよ

と、語っています。

(ちばさんは、1973年には、この時の体験をイラストと文章で綴った自伝「のろテツ奮戦す 屋根うらの絵本かき」を出版しています)

「ちばてつやは小3で初めて漫画を読みカルチャーショックを受けていた!」に続く

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