1956年、17歳の時、「復讐のせむし男」で漫画家デビューすると、以降、少女漫画誌・少年漫画誌で次々と作品を発表し、1698年、29歳の時には、梶原一騎(当時・高森朝雄)さんとタッグを組んだボクシング漫画「あしたのジョー」が、社会現象を巻き起こすほどの大ヒットを飛ばした、ちばてつやさん。
今回は、そんなちばてつやさんの若い頃から現在までの経歴や作品を、デビューから時系列でまとめてみました。
「ちばてつやの生い立ちは?8歳で漫画に魅了され17歳で貸本屋で漫画を描き始めていた!」からの続き
ちばてつやは10代の時に、「復讐のせむし男」で漫画家デビュー、「舞踏会の少女」で雑誌デビューしていた
17歳の時に「復讐のせむし男」で漫画家デビュー
1956年、17歳の時、「児童漫画家募集(神田の日昭書店)」という新聞の三行広告を見て、貸本屋の日昭書店を訪ねると、その場で、石橋国松社長に漫画の基本的な描き方を教わったというちばてつやさんは、石橋国松社長に言われるがままに原稿を描き続けると、128ページまで描いて完結となったそうですが、
その時、原稿料として、(当時の大卒の初任給に匹敵する)1万2,351円ももらい、びっくりしたそうです。
そして、同年には、ちばさんが持ち込んだ原稿を一冊の本にまとめた「復讐のせむし男」が貸本として出版されたそうで、これが、ちばてつやさんの漫画家デビューとなったそうです。
「復讐のせむし男」
19歳の時に「舞踏会の少女」で雑誌デビュー
そんなちばてつやさんは、高校に通いながら、貸本屋向けの漫画を描き続けると、1958年、19歳の時には、先輩の漫画家・鳥海やすさんに、「少女クラブ」の編集部を紹介してもらい、自身が描いた江戸川乱歩原作の「魔法人形」の漫画を見せると、採用されたことから、まずは、読み切りの少女漫画「リカちゃん」を描いたそうです。
すると、同じ頃に訪れていた「少女ブック」の編集部からも仕事を依頼されたそうで、今度は、読み切りの少女漫画「舞踏会の少女」を描くと、これが雑誌デビュー作となったのだそうです。
(「リカちゃん」「舞踏会の少女」両作共に1958年に発表されたのですが、「少女ブック」が先に発売されたため、「舞踏会の少女」が雑誌デビュー作となったそうです)
17歳の時、「児童漫画家募集(神田の日昭書店)」という新聞の三行広告を見て、日昭書店を訪ねると、その場で、石橋国松社長に漫画の基本的な描き方を教わり、言われるがままに原稿を描き続けたという、ちばてつやさんは、その後、石橋 …
ちばてつやが20代の時はボクシング漫画「あしたのジョー」が大ヒット
20歳の時に「ユカをよぶ海」でイジメっ子をやっつけるシーンを描き大反響となっていた
その後、ちばてつやさんは、1959年、20歳の時、「ユカをよぶ海」の連載を始めたそうですが、当時、少女漫画では、主人公が逆境に耐える悲しい話が主流だったため、ちばてつやさんも、ほかの少女漫画を参考に、「ユカをよぶ海」を描き始めたそうですが、悲しい話ばかりを描いているうち、ストレスが溜まってきたそうです。
そこで、ある時、主人公がイジメに遭った際、イジメてくる男の子をやっつける場面を描くと、これが大反響を呼んだそうで、以降、元気な女の子を描くようになったのだそうです。
「ユカをよぶ海」
22歳の時に「週刊少年マガジン」(野球漫画「ちかいの魔球」)で少年誌デビュー
すると、今度は少年誌からも声がかかったそうで、1961年、22歳の時には、週刊少年マガジン(野球漫画「ちかいの魔球」)で少年誌デビューを果たしたのだそうです。
「ちかいの魔球」
26歳の時に「週刊少年マガジン」連載の「ハリスの旋風」がテレビアニメ化され視聴率31.8%の大ヒット
以降、ちばてつやさんは、少年誌と少女誌の二刀流で活動し、1963年、「週刊少年マガジン」で連載を手掛けた「紫電改のタカ」や「週刊少女フレンド」で手掛けた「ユキの太陽」が人気を博すと、
1965年、26歳の時には、「週刊少年マガジン」で連載を手掛けた「ハリスの旋風」がテレビアニメ化され、視聴率31.8%を記録する大ヒットとなったのでした。
「ハリスの旋風」
1956年、17歳の時、「復讐のせむし男」で漫画家デビューすると、その後も貸本屋で漫画を描き続け、1958年、高校卒業前には、「少女ブック」に掲載された「舞踏会の少女」で雑誌デビューも果たした、ちばてつやさんは、その後、 …
29歳の時にボクシング漫画「あしたのジョー」が大ヒット
そんなちばてつやさんは、1968年、29歳の時には、「週刊少年マガジン」で、劇画作家である梶原一騎(当時・高森朝雄)さんとタッグを組んだ、ボクシング漫画「あしたのジョー」の連載を開始すると、連載中から大反響となり、社会現象を巻き起こすほどの大ヒットとなっています。
「あしたのジョー」
ちなみに、有名な「あしたのジョー」のラスト、ジョーが真っ白に燃え尽きるシーンは、当初は違うものだったそうで、
ちばてつやさんが、原作者である梶原一騎(当時・高森朝雄)さんが提案したものに疑問を感じ、ちばてつやさんの生き様そのものである、真っ白に燃え尽きる姿に変更したといいます。
少女誌で漫画家としてのキャリアを開始すると、やがて、少年誌から声がかかり、「週刊少年マガジン」で野球漫画「ちかいの魔球」の連載を開始した、ちばてつやさんは、以降、少女誌と少年誌の二刀流で活動する中、1968年には、梶原一 …
また、ちばてつやさんは、作中、ジョーと紀子のデートシーンでも、ジョーに自身を重ね合わせ、ジョーに生き様を語らせていたそうで、これが、ラストシーンにもつながっていったのだそうです。
ボクシング漫画「あしたのジョー」のラストシーンでは、当初、原作者である梶原一騎(当時・高森朝雄)さんが提案したものに疑問を感じ、ジョーが真っ白に燃え尽きるシーンに変更したという、ちばてつやさんですが、この、真っ白に燃え尽 …
「あしたのジョー」では、ラストシーンをどうするか悩んでいたという、ちばてつやさんですが、自身を投影していたという、ジョーと乾物屋の紀子とのデートシーンを、編集者に読み返すように言われ、閃(ひらめ)いたといいます。 「ちば …
ちばてつやの30代~60代
以降、ちばてつやさんは、数多くの作品を次々と発表すると、1981年、42歳の時には、ゴルフ漫画「あした天気になあれ」がヒットしています。
「あした天気になあれ」
1956年、17歳の時、「復讐のせむし男」で漫画家デビューして以来、少女漫画誌・少年漫画誌で次々と作品を発表し、1968年には、梶原一騎(当時・高森朝雄)さんとタッグを組んだボクシング漫画「あしたのジョー」が、社会現象を …
ちばてつやは70代で「ひねもすのたり日記」を連載スタートも現在(86歳)は白内障の手術のため休筆中
また、ちばてつやさんは、2015年、76歳の時には、「ビッグコミック」で「ひねもすのたり日記」の連載を開始すると、以降、執筆を続けていたのですが、2024年8月30日、86歳の時、左目の白内障の手術のため、しばらくの間、休筆することを発表しています。
その後、2024年10月現在、まだ復帰はしていないようですが、10月3日には、草野球に参加したことを、自身のブログに綴っており、お元気にされているようです。
1956年、17歳の時、「復讐のせむし男」で漫画家デビューすると、1968年には、梶原一騎(当時・高森朝雄)さんとタッグを組んだボクシング漫画「あしたのジョー」が、社会現象を巻き起こすほどの大反響となったほか、2002年 …