1970年、「消えた爆音」で漫画家デビューし、以降、「タッチ」「みゆき」「ナイン」「陽当り良好」「H2」などの野球漫画を次々と発表すると、ラブストーリーにスポーツを絡めた作品が、10代の若い世代を中心に絶大な支持を得て、一躍、人気漫画家の地位を確立した、あだち充(あだち みつる)さん。
そんなあだち充さんは、小・中学生時代から、お兄さんと一緒に漫画を描き始めると、貸本漫画の読者投稿コーナーの常連として活躍したそうで、
中学生の時には、高校在学中にプロの漫画家としてデビューしたお兄さんのアシスタントをするようになると、群馬の「天才兄弟」として知られるようになったといいます。
今回は、あだち充さんの、生い立ち(幼少期からアシスタント時代まで)をご紹介します。
あだち充のプロフィール
あだち充さんは、1951年2月9日生まれ、
群馬県伊勢崎市の出身、
血液型はAB型、
本名は、「安達充」(読み方同じ)
学歴は、
伊勢崎市立第一中学校
⇒群馬県立前橋商業高等学校卒業
だそうです。
あだち充が幼い頃は貧しい家庭ながらも母親が漫画雑誌を毎月のように欠かさず買ってくれていた
あだち充さんは、4人きょうだい(三男一女)の末っ子として誕生すると、幼い頃は、お父さんの仕事が安定せず、お母さんが働いて生計を立てていたそうで、決して裕福な家庭ではなかったそうですが、
(あだち充さんが少年時代を過ごした1960年代は、学校などでも「マンガなんか読んでるとバカになる」と言われていた時代だったにもかかわらず)お母さんは、毎月のように、月刊誌「ぼくら」や「冒険王」を欠かさず買ってくれたそうで、このことが、あだち充さんが将来、漫画家を志す大きな要因になったそうです。
ちなみに、あだち充さんは、自身の育った家庭について、
群馬県人って、幕末でさえ何もやってないですから。時代を変えようって人が出てこない土地柄なんです。とりあえず賽(さい)の目暮らしが性に合ってるから、あそこで天下を語る人なんかいないでしょう。
男はとりあえず博打(ばくち)。だから女房が働いてる家が多かった。だいたいがカカア天下で、奥さんがちゃんとしていないと家が潰れてしまう。
親父の甲斐性がなくてやたらと引っ越してたから、生まれた家の記憶はほとんどないんだよね。(中略)親父はその頃は会社に勤めてたけど、勤める会社がいつも潰れてた気がする。
詳しい話は聞いたことないんだけど。だからおふくろも和裁の仕事とか、いろんなことをやってましたね。でも周りもみんな貧乏だったから、まったく気にしてなかった。
などと、語っています。
あだち充が小学・中学生時代は兄・あだち勉とともに貸本漫画の読者投稿コーナーの常連だった
また、あだち充さんのすぐ上(3歳半年上)のお兄さんのあだち勉さんが、漫画を描くことが上手だったことから、あだち充さんは、幼い頃からお兄さんに漫画の描き方を教えてもらっていたそうで、
小・中学校の頃から、お兄さんともに漫画を描き、2人共、貸本漫画の読者投稿コーナーの常連となったそうです。
あだち充は中学生の時、貸本漫画家デビューした兄・あだち勉のアシスタントをし、”群馬の天才兄弟”と呼ばれ有名になっていた
そして、あだち充さんが中学生の時には、高校生だったお兄さんが貸本漫画家としてデビューしたそうで、あだち充さんは、お兄さんのアシスタントをするようになると、貸本漫画業界では、”群馬の天才兄弟”と呼ばれ有名になったのだそうです。
(そのため、あだち充さんは、漫画家としてお兄さんから大きな影響を受けたそうで、お兄さんが最初の師匠だったそうです)
あだち充は高校2年生の時に手塚治虫の漫画雑誌「COM」に投稿した「虫と少年」が佳作2位に選ばれていた
そんなあだち充さんは、絵を描く仕事を志し、地元で最も商業美術に力を入れていた、群馬県立前橋商業高等学校に進学し、商業美術部に入部したそうで、
高校2年生(16歳)の時には、手塚治虫さんが創刊した漫画雑誌「COM」の新人賞に「虫と少年」という作品を投稿すると、佳作2位に選ばれたのだそうです。
「虫と少年」より。
あだち充は高校2年生の時に兄・あだち勉の計らいで漫画家の永島慎二のアシスタントをすることになっていた
以降、あだち充さんは、新人投稿ページに応募するようになると、何度か作品が掲載されたそうで、
そんな中、1967年、あだち充さんが高校2年生の時には、高校卒業後に東京で広告会社(デザイン会社という話も)のデザイナーをしていたお兄さんが、漫画家の永島慎二さんに会いに行って、漫画家を目指すあだち充さんをアシスタントに採用してもらえるよう話をつけてくれ、さらには、漫画家になることに反対する両親を説得してくれたそうで、
あだち充さんは、高校卒業後は、永島慎二さんのアシスタントとして働くことになったのだそうです。
(お兄さんは、一旦、漫画家を諦め、東京でサラリーマンをしていたそうですが、ほどなくして会社を辞め、漫画家としての活動を再開すると、その後、「みゆき」でブレイクしつつあった、あだち充さんのマネージャー兼アシスタントとなり、あだち充さんの漫画家としての活動をサポートしていたそうですが、2004年、55歳の若さで、胃ガンのため他界されています)
あだち充は高校3年生の時に石井いさみのアシスタントとして上京していた
しかし、翌年の1968年、あだち充さんが高校3年生の時には、永島慎二さんが、突然、渡米してしまったことから、
あだち充さんは、慌てて、「COM」編集部から、同誌に連載を持っていた石井いさみさんを紹介してもらったそうで、高校3年生の1969年初春(卒業前)、アシスタントとして働くために上京したのだそうです。
「【画像】あだち充の若い頃は?デビューから現在までの作品や経歴を時系列まとめ!」に続く
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