小学5年生の時、運命的な出会いをとげた、藤子不二雄Aこと安孫子素雄(あびこ もとお)さんと、藤子・F・不二雄こと藤本弘(ふじもと ひろし)さんは、中学2年生の時には、手塚治虫さんの「新宝島」に強い刺激を受け、漫画家を目指すことになります。
「藤子不二雄a(安孫子素雄)の生い立ちは?藤本弘との出会いは?」からの続き
「藤子f不二雄(藤本弘)の生い立ちは?安孫子素雄との出会いは?」からの続き
安孫子素雄と藤本弘の合作で「天空魔」
こうして、手塚治虫さんの「新宝島」に強い刺激を受けた、安孫子さんと藤本さんは、さらに漫画にのめり込むと、
手先の器用な藤本さんが反射幻燈器(現在のオーバーヘッドプロジェクタの原型)を製作し、それに使う漫画「天空魔」を二人で描いて、近所の子どもたちに読み聞かせたことをきっかけに、中学から高校にかけては、それぞれ単独で、自作の作品を漫画雑誌「漫画少年」などに投稿。
反射幻燈器(本のページなどを大きなキャンバスに投影する機械)
ただ、藤本さんの方が、断然、入選率が高かったそうで、一時、安孫子さんは、屈辱感と嫉妬にさいなまれたそうですが、
その後、1人でやるより、2人でやったほうが勉強になるだろうと合作を始めるようになると、我孫子さんも、自分が活躍できる場を得たせいか、藤本さんが才能を発揮しても、心理的な屈折がなくなったそうで、高校2年生の時には、完全に合作でいくこととなったのでした。
ちなみに、お二人は、この頃から共通の郵便貯金口座を作って原稿料を管理するようになり(お金の管理は藤本さん)、このことがきっかけで、「藤子不二雄」名義で描いた漫画のギャラはすべて折半するというスタイルが、コンビを解消するまで続いたのだそうです。
手塚治虫からファンレターの返事が来る
また、同時期、お二人は、「神様」と崇めるほど尊敬する漫画家である、手塚治虫さんにファンレターを送られているのですが、その半月ほど後に、なんと、手塚さんから、
SHONEN,しっかりしたタッチで将来がたのしみです
などと書かれた直筆の返事が届いたそうで、「神様」からの返事にお二人は狂喜乱舞。
このことがきっかけとなり、以降、お二人は、手塚さんと手紙のやり取りをするようになったのだそうです。
4コマ漫画「天使の玉ちゃん」で漫画家デビュー
そんなこともあり、ますます、漫画家になることへの意欲を燃やされたお二人は、1951年には、「毎日小学生新聞」に、
ぼくたちは富山の高校生です。手塚治虫先生の大ファンで、マァチャンの日記帳(手塚さんの雑誌デビュー作品)からの愛読者です。今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい。
と、手紙と4コマ漫画「天使の玉ちゃん」を送られると、
それから約1ヶ月後には、見事、採用されて、「天使の玉ちゃん」が「毎日小学生新聞」に掲載。お二人は事実上の漫画家デビューを果たされたのでした。
藤子・F・不二雄大全集 UTOPIA 最後の世界大戦/天使の玉ちゃん
(このことで、二人が漫画を描いていることが、先生や同級生たちに一気に知れ渡ったそうです。)
手塚治虫と初めての対面
ただ、そんなお二人も、高校卒業後は就職することになるのですが、
手塚治虫さんに熱烈なファンレターを出し続けていたことから、卒業直前の春休みを利用して、念願だった手塚さんの自宅(兵庫県・宝塚市)を訪れる機会を得たそうで、
その際、お二人が描いた漫画「ベンハー」(原作はアメリカの小説で、1959年にハリウッドが映画化)を手塚さんに見せられると、
手塚さんに、
上手だね
と、言葉をかけてくれもらったのだそうです。
ちなみに、安孫子さんは、初めて手塚さんに会ったときのことを、
あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた
と、ラジオ番組で語っておられました。
手塚治虫も藤子不二雄の実力に衝撃を受けていた
こうして、「神」手塚さんに会うことができたお二人は、舞い上がっていたのですが、
実は、手塚さんも、内心、お二人の漫画の上手さに衝撃を覚え、
とんでもない子達が現れた
まだ有名な映画が作られる前である。これは自分の領域を侵す大変な新人だ。
と、驚かれたそうで、
その後も、
藤子さんの原稿が気になってしょうがなかった
藤子さんは、会ったときからライバルです
今でも大きなライバルです
と、その時の気持ちを明かされており、手塚さんは、この時、お二人が見せた漫画「ベンハー」を、終生大切に保管されたのでした。
(ちなみに、安孫子さんは、自著「まんが道」で、この時持参した漫画を「ユートピア」(「ベンハー」ではなく)と表記されているのですが、ハリウッド映画「ベンハー」の著作権等の問題で変更されたそうで、実際には、「ユートピア」ではなく、「ベンハー」が正しいそうです。)
「藤子不二雄が若い頃は就職?トキワ荘では赤塚不二夫や石ノ森章太郎と!」に続く