1955年1月、渡辺晋さんとともに、「渡辺プロダクション」を設立すると、二人の理想とする「近代的な芸能マネジメント」を目指し、月給制の導入や合理的な組織運営、ローテンション勤務の構築などに取り組むほか、

当時、日本では、無名だったロカビリーを「日本劇場」(日劇)という大舞台へと持ち込み、試行錯誤の末、見事、日本の芸能史に残る大成功を収め、後の「ナベプロ帝国」を築くきっかけを作った、渡邊美佐(わたなべ みさ)さん。

今回は、そんな渡邊美佐さんの若い頃(「渡辺プロダクション」設立以降)から現在までの経歴を時系列でご紹介します。

渡邊美佐

「渡邊美佐の家系図は?生い立ちは?大学時代から通訳とバンドのマネジメント!」からの続き

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渡邊美佐は26歳の時に夫・渡辺晋と「渡辺プロダクション」を設立していた

「近代的な芸能マネジメント」の必要性を感じ、「シックス・ジョーズ」のベーシスト・渡辺晋さんと協力して活動を広げていった渡邊美佐さんは、1955年1月(渡邊美佐さん26歳)には、ついに、二人の夢を具現化する形で「渡辺プロダクション」を設立すると、渡邊美佐さんは、副社長に就任します。

また、同年3月、二人は結婚します。

ちなみに、渡邊美佐さんの夫の渡辺晋さんは、「組織化」の必要生を強く感じていたそうですが、発足時の「渡辺プロダクション」にはまだ組織はなく、あるのは、二人が語り合ってきた夢への情熱だけだったそうです。

渡邊美佐は26歳の時に現代的な芸能事務所を作り上げていた

結婚後も、渡邊美佐さんの仕事はとどまることを知らず、それまでの「興行師」のイメージを一新し、タレントを守り、戦略的にプロデュースする現代的な芸能事務所の形を創り上げていきます。

月給制の導入と生活の安定

その代表的なものが、月給制の導入でした。

当時のジャズマンたちの報酬は、出演ごとに支払われる「アタマ(人数)割り」や、ステージに投げ込まれるおひねりのような不透明で不安定なものが一般的で、

夫の渡辺晋さんは、1954年頃からジャズブームが下火になり、失業するミュージシャンが出始めた現状を目の当たりにし、「ジャズの火を燃やし続けるためには、まず彼らの生活を保障しなければならない」と考えたのでした。

それまでの「一晩いくら」という不安定な報酬体系を廃止し、固定の月給制を採用し、ミュージシャンが金銭的な不安を感じることなく、音楽の追求に専念できる環境を整えたのでした。

合理的な組織運営とローテーション勤務

また、合理的な組織運営とローテーション勤務にも取り組んだそうです。

月給制を維持するためには、会社として常に一定以上の収益を上げ続ける必要があるのですが、そのために、渡邊美佐さんと渡辺晋さんは、それまでの「個々のバンドがバラバラに動く」形態から、組織的なマネジメントへと舵を切り、

多くの出演場所(職場)を確保し、複数のバンドを抱えてそれらを効率よく回転(ローテーション)させるシステムを構築しました。

近代的な芸能マネジメントの確立

渡邊美佐さんと渡辺晋さんは、役割分担を明確にしていたそうで、音楽面は夫の渡辺晋さんが、ビジネスや交渉面は英語が堪能で経営感覚に優れた渡邊美佐さんが担当していました。

渡邊美佐さんは学生時代から培った交渉力を活かし、進駐軍キャンプとの複雑な条件交渉を個人ではなく「組織」として行うことで、より有利で安定した条件を引き出していたのでした。

(これらの施策は、それまでの「興行師」による古い芸能界の慣習を打ち破り、現代の芸能プロダクションのモデルとなる「近代的なエンターテインメント・ビジネス」の先駆けとなっています)

渡邊美佐は29歳の時に「日劇ウエスタン・カーニバル」を企画していた

また、渡邊美佐さんは、「渡辺プロダクション」を設立して間もない頃、ジャズに続く、次の一手を探していたのですが、そんな中、ロカビリーに熱中していた妹の曲直瀬信子さんの紹介で、ウエスタンバンドが演奏するジャズ喫茶やホールを訪れたそうです。

(1954年から有楽町の東京ヴィデオ・ホールで始まった「ウエスタンカーニバル」は、1950年代半ばには入場しきれないほど、ファンが押し寄せ、爆発的な人気を博しており、会場には「親衛隊」と呼ばれる熱狂的な女性ファンも現れるほどでしたが、その一方で、出演するバンドマンたちはホール以外の時間は都内の小さなジャズ喫茶で地道に演奏活動を続けるという、対照的な生活を送っていたそうです)

渡邊美佐さんは、そこで見た、若者たちの熱気に可能性を感じ、

客足が落ちる2月の閑散期に、この勢いをぶつけてみたらどうだろう

と、妹の信子さんらと共に、当時ジャズ喫茶で人気だったウエスタンバンド(山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんら総勢60名)を集め、大規模なイベントを企画したそうです。

そこで、渡邊美佐さんは、浅草の国際劇場に企画を持ち込んだのですが、ウエスタンバンドは、当時はまだ、無名のジャンルだったことから、

客を呼べるのか?

と、一蹴されてしまいます。

それでも、諦めず、演出家の山本紫朗氏を伴って「日本劇場」(日劇)と交渉すると、日劇側も当初は難色を示したそうですが、

動員が見込めない2月なら

という条件付きで、ようやく開催の許可が下りたのでした。

そんな中、渡邊美佐さんは、夫の渡辺晋さんに、現場でイベントを仕切っていた「スウィング・ウエスト」のリーダー・堀威夫さん(後のホリプロ創業者)を紹介されます。

実は、同じ頃、堀威夫さんは、劇場の拡大を模索しており、ジャズ喫茶での熱狂を肌で感じていたことから、

日劇のような大劇場でも必ず成功する

と、確信していたのでした。

ただ、堀威夫さんには、日劇とのパイプがなかったため、日劇のステージ経験が豊富な渡辺晋さんに相談を持ちかけたところ、妻である渡邊美佐さんを紹介されたのだそうです。

渡邊美佐は29歳の時「第1回日劇ウエスタンカーニバル」の開催に向けて手探りの中準備を進めていた

こうして、渡邊美佐さんの「企画」と、堀威夫さんの「現場力」が一つに結ばれると、「第1回日劇ウエスタンカーニバル」の開催に向けて、準備が進められ、

渡邊美佐場さんが、プロデューサーを担当するほか、

  • 山本紫朗さん(構成と演出を担当)
  • 堀威夫さん(キャスティングや曲目決定、営業活動を統括)
  • 曲直瀬信子さん(ファンとの繋がりを活かし、客席からテープを投げる演出を依頼するなど、現代の「推し活」の原型とも言える盛り上げをプロデュース)

と、強力な布陣が敷かれたのでした。

渡邊美佐はリハーサル中に怒って帰ってしまったミッキー・カーチスをなだめ説得していた

しかし、すべてが手探りの中、渡邊美佐さんは、あまりの忙しさにリハーサルの段取りを失念し、本番直前までスケジュール調整に追われていたそうです。

また、日劇という伝統ある舞台を前に、出演者と演出サイドの間には緊張が走っており、リハーサル中、(妙に真面目に振る舞うのが嫌いで)冗談を飛ばしたミッキー・カーチスさんに対し、演出家の山本紫朗氏が注意すると、その後、二人は言い合いに発展し、

その末に、山本紫朗氏が、売り言葉に買い言葉で、

日劇に出る新人のロカビリーのくせに生意気だ

と、口を滑らせて言ってしまったそうで、

ミッキー・カーチスさんはこれに激怒し、本当に帰ってしまうという事態に発展してしまいます。

渡邊美佐さんは、そんなミッキー・カーチスさんを必死でなだめ、説得し、戻ってもらうことができたそうです。

渡邊美佐は親衛隊の少女たちを3人までの条件付きで楽屋へ入室許可していた

一方、山下敬二郎さんの楽屋には、熱狂的な女性ファン(親衛隊)20人余りが押し寄せていたそうで、渡邊美佐さんは当初、厳しく追い返そうとしましたが、

泣き出しそうな少女たちと、彼女たちを「俺の仲間だ」とかばう山下敬二郎さんの姿を見て、「3人まで」という条件付きで入室を許可したそうです。

(このようなギリギリの状態が本番直前まで続いたそうです)

渡邊美佐は「日劇ウエスタン・カーニバル」本番直前2000人を超える観客の熱量に圧倒されていた

そして、いよいよ本番直前となり、日劇の巨大なシンボルである「幅30メートル、高さ12メートルの大階段」の最上段に立った歌手たちは、2000人を超える観客の熱量に圧倒されていたそうで、

渡邊美佐さんが、

どうしたの、あなたたち?

と、声をかけると、スターたちの顔は蒼白で、足はガクガクと震え、音程すら取れないほどの極限状態に陥っていたそうで、大階段の最上階から会場を見て、改めてそのスケールの大きさに萎縮してしまっていたのでした。

(そいういう渡邊美佐さんの声も震えていたそうです)

すると、静まり返った会場の客席から、

一人の少女が、

ケイちゃん、がんばってぇー!

と、叫ぶ声が響き渡ったそうで、

(先ほど、渡邊美佐さんが楽屋入りを許した親衛隊の一人だったそうです)

この声をきっかけに、各親衛隊たちが一斉に歓声を上げ、出演者たちは一気に息を吹き返します。

渡邊美佐は「日劇ウエスタン・カーニバル」のステージに紙テープを投げ込むことを閃いていた

そして、渡邊美佐さんは、休憩中、親衛隊の少女たちが、

紙テープを投げて、他の人たちをあっと言わせましょ

と、話しているのを耳にし、

自分たちの推しが一番人気に見えるようにしたい

と、画策しているのを知ると、

これだ!

と直感。

問屋街の日本橋横山町にすぐさまタクシーを飛ばし、開店前の店のシャッターを叩いて、買えるだけの紙テープを買い占めます。

そして、

これを投げて声の限り叫んでちょうだい

と、少女たちに配り歩いたそうです。

そして、無数の紙テープが舞台に投げ込まれると、歌手やギターに絡みついて、ぐるぐる巻きになるほどで、さらにはトイレットペーパーや女性の下着までが宙を舞い、興奮したファンがステージに上がって歌手に抱きつくなど、現場はパニック寸前の熱狂に包まれたそうです。

山下敬二郎さんは、マイクが音を拾いきれないほどの黄色い声援に対抗するため、いつも以上に激しく身体を動かし、全身でロカビリーを表現すると、さらに大歓声が沸き起こったそうです。

こうして、一週間の公演が終わる頃には、出演者たちの衣装もギターもボロボロになっていて、息も絶え絶えになり、舞台でしゃがみ込みながら歌わなければならないほどだったそうです。

渡邊美佐は29歳の時に「第1回 日劇ウエスタンカーニバル」を成功に導いていた

こうして、1958年2月8日から1週間、開催された「第1回 日劇ウエスタンカーニバル」は、社会現象にまでなり、7日間で観客動員数は延べ4万5千人に達する大盛況で、日本の芸能史に刻まれる空前の成功を収めます。

そして、渡邊美佐さんは、この「第1回 日劇ウエスタンカーニバル」の成功で、「ロカビリーマダム」「マダムロカビリー」と、称され、一躍、脚光を浴びたのでした。

「第1回 日劇ウエスタン・カーニバル」
「第1回 日劇ウエスタンカーニバル」より。ミッキー・カーチスさん(中央)。

(夫の渡辺晋さんは、この成功を見て1958年9月にジャズプレイヤーを引退すると、「渡辺プロダクション」の経営に本腰を入れるようになったそうで、この成功は、その後「ナベプロ帝国」と呼ばれる地位を築く足掛かりとなったのでした)

(プロダクションの裏方が注目を集め、スターとなったのは、渡邊美佐さんが初めてだったそうです)

渡邊美佐は30歳の時に堀威夫と映画「檻の中の野郎たち」の主演を巡り対立していた

1958年、日本では、まだ無名だったロカビリーを「日本劇場」(日劇)という大舞台へと持ち込み、本番直前まで手探りの準備が続くという極限状況の中、見事、日本の芸能史に残る大成功を収めた、渡邊美佐さんですが、

1950年代後半、日本中を熱狂させたロカビリーブームの裏側で、「スウイング・ウエスト」の堀威夫さん(後のホリプロ設立者)との間で、映画の主演を巡り、激しい対立があったといいます。

1959年のこと、「渡辺プロダクション」の傘下で「スウィング・ウエスト」を率いていた堀威夫さんは、「スウィング・ウエスト」のバンドボーイ(雑用係)をしていた守屋浩さんの才能を見抜き、守屋浩さんを歌手として売り出そうと奔走していました。

(堀威夫さんが「スウィング・ウエスト」を結成した時、守屋浩さんはまだ高校生だったのですが、「スウィング・ウエスト」のファンで、無給でいいからバンドボーイにしてほしいと懇願されたそうです)

さらに、堀威夫さんは、すでに人気だった水原弘さん、井上ひろしさんに加え、同じ「ひろし」の名を持つ守屋浩さんを加えて、「三人ひろし」というユニットを考案すると、この戦略が見事に当たり、守屋浩さんは一躍スターダムに駆け上がりました。

そんな中、1959年、ロカビリースターが総出演する映画「檻の中の野郎たち」の企画が持ち上がると、堀威夫さんはこの主役に、まだ実績のなかった新人・守屋浩さんを猛烈にプッシュ。

しかし、ここで、渡邊美佐さんは、自分が手塩にかけて育てた「日劇ウエスタン・カーニバル」から派生した重要な映画プロジェクトに、海のものとも山のものともつかない新人を起用することに難色を示したそうで、

渡邊美佐さんは、

実績のない新人を無理やり入れるのはおかしい

と、会議で不満を漏らしたそうです。

すると、渡邊美佐さんの不満を耳にした堀威夫さんは激昂。

自分が手塩にかけた新人が出て何が悪いんだ!

という自負と、現場を仕切る自分への不信感と受け取った堀威夫さんは、渡邊美佐さんとの対立を深めていったそうです。

渡邊美佐との対立を深め堀威夫が「渡辺プロダクション」から独立していた

この頃、渡邊美佐さんは、マスコミからはロカビリーブームの旗手として脚光を浴びていたのですが、実質的に現場を動かし、バンドマンたちから信頼を寄せられていたのは堀威夫さんの方でした。

渡邊美佐さんの影響力が強まっていく中で、

堀威夫さんは、

この芸能界で生き残るには、質と量の両方が揃っていなければならない

という教訓を学び、

最終的に、自分の力を信じた堀威夫さんは、1959年6月の「第5回ウエスタン・カーニバル」を最後に「渡辺プロダクション」から独立することを決意したのでした。

(独立後、守屋浩さんは浜口庫之助さんのプロデュースによる「僕は泣いちっち」などの大ヒットを飛ばし、スターとしての地位を不動のものにします。また、映画と同名の主題歌「檻の中の野郎たち」も、発売当日に5万枚を売り切るほどの反響を呼びましたが、歌詞の内容が社会問題となり発売中止になるというハプニングがあったそうです)

こうして、「近代的な芸能マネジメント」を確立しようとする渡邊美佐さんと、「現場のプロデューサー」としてスターを育てようとする堀威夫さんの間には、大きな亀裂が生じてしまったのですが、この出来事が、後の日本のエンターテインメント界を牽引する二つの大きな流れを作るきっかけとなったのでした。

渡邊美佐は38~39歳頃に「六本木野獣会」のメンバーをマルチタレントとして育成していた

1960年代前半頃、渡邊美佐さんは、六本木で遊んでいた若者たちのグループ「六本木野獣会」の田辺靖雄さん、峰岸徹さん、大原麗子さん、ジェリー藤尾さんなどにいち早く目をつけると、

「六本木野獣会」のメンバーたちを歌手、俳優、ダンサーといった、一つのジャンルに精通したプロフェッショナルではなく、マルチタレントのグループとして売り出そうと目論見、その一環として、「野獣会オールスターズ」(後の「ザ・ジャガーズ」)を結成します。

(井上順さんがボーカルとして参加しています)

渡邊美佐が40歳頃には「渡辺プロダクション」は圧倒的な影響力を持つ「芸能王国」となっていた

また、1960年代後半には、「渡辺プロダクション」は、渡邊美佐さんと渡辺晋さんが築き上げた合理的な経営基盤を武器に、圧倒的な影響力を持つ「芸能王国」となっていました。

というのも、「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」といったテレビ番組を自社で企画・制作するだけでなく、それまでレコード会社が独占していた「原盤権」を自社で持つという業界のシステム変革を成し遂げたからなのですが、

これにより、事務所が主導権を握ってスターを戦略的にプロデュースすることが可能になったことから、布施明さん、沢田研二さん、森進一さんらをスター歌手として育て、「ナベプロ」を日本最大の芸能プロダクションにすることに成功したのでした。

渡邊美佐の現在は?

しかし、1987年、夫の渡辺晋さんが59歳という若さで他界されると、渡邊美佐さんは、「渡辺プロダクション」の会長に就任し、2026年4月、97歳の現在も、「渡辺プロダクション」の取締役名誉会長して、日本のエンターテインメント界における「最高齢の現役女性プロデューサー」として活動しています。

渡邊美佐の受賞歴

そんな渡邊美佐さんは、数多くの賞も受賞していますので、ご紹介します。

  • 1966年「婦人公論最高殊勲婦人監督賞」
  • 1991年「世界音楽文化功労賞」
  • 1997年「国際音楽産業見本市(MIDEM)アジア表彰」
  • 1998年「日本音楽著作権協会功労者表彰」
  • 1999年「日本音楽著作権協会永年功労者表彰」
  • 1999年「著作権法百年記念特別功労者文部大臣表彰」
  • 2004年「カンヌ市パルムドール賞」
  • 2005年「第47回日本レコード大賞功労賞」
  • 2011年「文化庁長官表彰」
  • 2018年「国際音楽出版社連合ラルフ・ピア二世賞」
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渡邊美佐の栄典

また、

  • 1997年「芸術文化勲章シュヴァリエ章」
  • 2004年「芸術文化勲章オフィシエ章」
  • 2012年「藍綬褒章」
  • 2019年「文化功労者」

も、受章しています。

予定に続く

お読みいただきありがとうございました

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