大手芸能事務所「渡辺プロダクション」の設立者で、日本の芸能界に近代的なマネジメント・システムを確立した”女帝”こと、渡邊美佐(わたなべ みさ)さん。
そんな渡邊美佐さんは、日本医学に大きな足跡を残した、医師の曲直瀬道三(まなせ どうさん)を先祖に持つ、非常に国際的な家系で、由緒正しい家柄に生まれ育ったそうですが、
大学時代、堅苦しい寮生活を送る中、ジャズを聴くことが何よりも楽しみとなると、やがて、得意な英語を活かして、慶応義塾大学の学生バンドと進駐軍キャンプの通訳やバンドのマネージメントを手掛けるようになったといいます。
今回は、渡邊美佐さんの幼少期(生い立ち)からプロモーターとして活動するようになるまでをご紹介します。

渡邊美佐のプロフィール
渡邊美佐さんは、1928年9月25日生まれ、
神奈川県横浜市の出身、
学歴は、
横浜市立青木小学校
⇒捜真女学校
⇒ミッションスクール・宮城女学校(疎開先で転入)
⇒日本女子大学英文科卒業
ちなみに、「渡邊美佐」は本名ですが、「邊」が旧字体のため、新字体の「辺」と表記されることもあるそうです。
渡邊美佐の家系図は?祖先は曲直瀬道三、父親は「マナセプロダクション」創業者の曲直瀬正雄
また、渡邊美佐さんは、
- 父方の祖先には、正親町天皇の脈をとったり、織田信長の診察も行った、日本医学の中興の祖の曲直瀬道三(まなせ どうさん)
- 父方の祖父は、江戸時代に活躍した軍学者・山鹿素行の直系で、メソジスト牧師の山鹿旗之進さん
- 父は、日本最古の芸能プロダクション「マナセプロダクション」創業者の曲直瀬正雄さん
- 妹は、芸能プロダクション「マナセプロダクション」代表取締役社長の曲直瀬道枝さん
- 甥には、芸能プロダクション「YU-Mエンターテインメント株式会社」の代表・山田昌治さん
- 娘婿には、元・日本テレビのプロデューサーで「ワタナベエンターテインメント」代表取締役会長の吉田正樹さん
と、由緒ある家系かつ実業家の一族です。
(母方の牧野家も、何千坪もの敷地に、何十室もある洋館、厩舎、ガレージがある贅沢な邸宅を持っていたそうです)

渡邊美佐さんの家系図。

(後列左から)渡邊美佐さん、曲直瀬正雄さん(父)、曲直瀬信さん(三妹)、曲直瀬花子さん(母)、曲直瀬陽造さん(長弟)。(ベンチ左から)曲直瀬敏雄さん(次弟)、曲直瀬美枝さん(長妹)、曲直瀬翠さん(次妹)。(曲直瀬道枝さんのブログより引用)
渡邊美佐はワンエイス(1/8)
そんな渡邊美佐さんは、
- 母方の祖父の牧野暎次郎さんが日本人とイギリス人のハーフ(1/2)
- 母方の祖母の牧野年枝さんが日本人とアメリカ人のハーフ(1/2)
のため、お母さんの牧野花子さんはクオーター(1/4)となり、
お父さんの曲直瀬正雄さんは日本人なので、「ワンエイス(1/8)」です。
渡邊美佐は幼い頃からグローバルな視点を持つ環境で育っていた
渡邊美佐さんは、家業である貿易商「曲直瀬商会」を経営していたお父さんの曲直瀬正雄さんとお母さんの花子さんのもと、8人きょうだい(兄1人(早逝)妹4人弟2人)の長女として、名門・曲直瀬家の流れをくむ家系に誕生すると、
叔父や伯母たちはハワイへの移住と帰国を経験するなど、イギリスやハワイと縁が深かったことから、渡邊美佐さんも、幼い頃からグローバルな視点を持つ環境で育ったそうです。
渡邊美佐は16歳の時に横浜大空襲により自宅が消失し一家で宮城県登米郡米谷町へ疎開していた
そんな渡邊美佐さんは、少女時代には、フェリス女学院に通い、良家の娘として育てられていたそうですが、
太平洋戦争が始まり、1945年5月29日には、一転、横浜で暮らしていた渡邊美佐さんの一家は横浜空襲によって住まいを失い、
(この時、渡邊美佐さんは、家におり、降りかかる火の粉を避けるために布団を頭からかぶって逃げたそうです)
戦火を避けるために、家族で宮城県登米郡米谷町へと疎開したそうです。
渡邊美佐は16~17歳の時に母親の仕事に伴い仙台に移り住んでいた
そして、終戦の翌年の1946年、お母さんが仙台駐留の米軍基地に通訳として採用されたことから、一家は宮城県から仙台に移り住んだそうですが、
お母さんの仕事は、通訳だけにとどまらず、基地内や仙台市内のクラブなど娯楽施設に、芸能人を斡旋したり調達する業務を任されたそうで、
(かつて横浜に在住していたことから、東京の芸能事情にも詳しいだろうと期待されたそうです)
お父さんも東京と仙台を往復することになると、やがて、両親は、仙台に、芸能人斡旋をビジネスとする「オリエンタル芸能社」(後に「曲直瀬プロダクション」)を設立したのだそうです。
渡邊美佐は20歳の時に日本女子大学英文科に進学していた
さておき、渡邊美佐さんは、仙台では、宮城女学院に編入すると、演劇部に入り、しばしば、市内の映画館に通うなど、両親の多忙と終戦で、開放的な生活を謳歌していたそうですが、
秋になり、進学の準備に取り掛からなければならなくなると、曲直瀬家(日本医学の中興の祖・曲直瀬道三の子孫)の娘として医者の道に進んでほしいとの、おばあちゃんとお父さんの意向で、東京女子医学大学と日本女子大学を受験することにしたそうです。
すると、東京女子医学大学は不合格となってしまったそうですが、日本女子大学には合格したことから、1949年、20歳の時、東京に戻り、日本女子大学英文科に進学したのだそうです。
渡邊美佐の大学時代はラジオから流れるジャズを聴くことが何よりも楽しみだった
その後、渡邊美佐さんは、日本女子大学進学後は、雑司が谷にある、躾(しつけ)に厳しい泉山寮に寄宿し、堅苦しい毎日を送っていたそうですが、
そんな寮生活の中で、何よりも楽しみだったのがラジオから流れるジャズを聴くことだったといいます。
というのも、戦後の東京・銀座はジャズ文化が復興しつつあり、渡邊美佐さんは、授業が終わった後、友人と銀座の街に繰り出す「銀ブラ」を日課にしながら、進駐軍兵士やジャズマンが集まる「チョコレート・ショップ」などの喫茶店に通い詰め、ジャズにのめり込んでいったのだそうです。
渡邊美佐は大学時代に学生バンドの進駐軍キャンプへの通訳をしたきっかけでマネージャーもするようになっていた
そんな中、「曲直瀬の娘」として知られていた渡邊美佐さんは、慶應義塾大学の学生バンドのメンバーに、「いいアルバイト先はありませんか」と相談されるようになったそうで、
学生バンドのアルバイト先といえば、進駐軍のキャンプが多かったことから、渡邊美佐さんは、趣味と実益を兼ね、堪能な英語を活かして、学生バンドの進駐軍キャンプへの通訳をするようになると、
やがては、通訳だけでは物足りなくなり、バンドのスケジュール管理をし、自分で仕事を決めていくようになったそうで、自然な形で、通訳からマネージャーへとシフトしていくと、次第にマネジメントの才能も発揮したそうで、
大学4年生になる頃には、学生マネージャーでありながら、慶應義塾大学の学生バンドを4つも抱えたのだそうです。
こうして、手際よくバンドを切り盛りする渡邊美佐さんの手腕は、プロの間でも高く評価されるようになっていったそうで、
王子キャンプから、クラブのエンターテイメント全般のプログラムを任せられるようになると、その名が知られる存在になっていったのだそうです。
渡邊美佐は大学時代に後に夫となるベーシストの渡辺晋にマネージャーを依頼され仕事が段違いに面白くなっていた
また、この頃、渡邊美佐さんは、(後に夫となる)ベーシストの渡辺晋さんに、
うちのバンドのマネージャーもやってくれないか
と、声をかけられ、渡辺晋さん率いるバンド「シックス・ジョーズ」のマネージャーをすることになったそうですが、
「シックス・ジョーズ」の仕事を手掛けるようになると、仕事が段違いに面白くなっていったそうで、当初は、週末だけしかしなかった「シックス・ジョーズ」の仕事を他の日もするようになったといいます。
(何よりもプロとして仕事をしているというプライドが芽生えたそうです)
渡邊美佐は25歳の時にはプロモーターとしても頭角を現すようになっていた
また、同時期、渡邊美佐さんは、銀座のジャズクラブ「ハト」でも仕事を始めたそうで、渡辺晋さんとともに、日比谷公会堂でオールスター・ジャズ・コンサートを主催するほか、
1953年からは、「ロッカー・フォー」(新橋)、「マキシム」(日本橋)などに仕事場を広げていくと、バンドマネージャーの域を越え、プロモーターとしての仕事もするようになっていったそうで、
渡邊美佐さんは、出演交渉、出演者との関係づくり、現場の段取り、金銭感覚など、実務を一つ一つ覚えながら、裏方として頭角を現していったのだそうです。
「渡邊美佐の若い頃(渡辺プロダクション設立以降)から現在までの経歴は?」に続く
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