戦後、ジャズ・ブームを牽引するトッププレイヤーとして活躍後、「渡辺プロダクション」を創設すると、徒弟制度が主流だった芸能界に近代的マネジメントを導入するほか、ジャズブームを日本独自のエンターテインメント産業へと昇華させるなど、スターを組織的に生む仕組みを構築して、現在の芸能界の礎を作った、渡辺晋(わたなべ しん)さん。
そんな渡辺晋さんは、幼い頃は、優しく小柄だったことから、「坊や」と呼ばれて可愛がられるも、芯は強く、中学時代には、水泳部と弓道部を掛け持ちし、その両方でリーダーを務めるなど、早くもリーダーシップを発揮すると、
終戦直後の大学生活で、飢えを凌ぐために始めたバンド(音楽)の初出演となる四国興行では、いきなりピンチに陥るも、抜群のプロデュース力で、見事、公演を成功に導いたといいます。
今回は、渡辺晋さんの、幼少期(生い立ち)から「シックス・ジョーズ」でプレイヤーとして活動していた時代までを時系列でご紹介します。

渡辺晋の家系図とプロフィール
渡辺晋さんは、1927年3月2日生まれ、
東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)の出身、
学歴は、
第二延山尋常小学校(現・品川区立第二延山小学校)
⇒清美尋常小学校
⇒源地尋常小学校
⇒旧制立正中学校(現・立正大学付属高等学校)
⇒早稲田大学専門部法律科中退
ちなみに、本名は「渡邊晋」(読み方同じ)で、渡邊家は九州の福岡・黒田藩に仕えた高禄の武家だったといいます。
(現在も福岡市内にある「渡辺通り」は渡邊家に由来しているそうで、明治維新後、その一部の土地を売却して第十七銀行(現・福岡銀行)の株を取得した、大地主の家柄だそうです)

渡辺晋の家系図。
渡辺晋が幼い頃は父親の仕事の都合で各地を転々としていた
渡辺晋さんは、日本銀行に勤務するお父さんの渡邊泰(わたなべ ゆたか)さんとお母さんのサキさんのもと、3人兄弟の次男として誕生すると、幼い頃は、お父さんの転勤で、東京、門司(福岡)、松本(長野)と移り住み、
再び、東京に戻った時に、お父さんが大田区洗足池近くに自宅を建てたそうで、ようやく一家は落ち着いたそうです。
渡辺晋は中学校時代には水泳部と弓道部の両方でリーダーを務めるなど早くもリーダーシップを発揮していた
そんな中、渡辺晋さんは、幼い頃から手のかからない優しい子供だったそうですが、
小学校を3度も変わったにもかかわらず、持ち前の性格で、小学校でも、中学校でも、行く先々で、すぐに親友を作ることができたといいます。
また、渡辺晋さんは、早生まれで、小柄だったことから、周りからは「坊や、坊や」と呼ばれ、可愛がられる存在だったそうですが、芯の強さは人一倍で、
1939年、12歳で、中学校に進学後は、水泳部と弓道部を掛け持ちし、その両方でリーダーを務めたそうで、早くも統率力を発揮していたといいます。
渡辺晋は中学時代に空襲で焼け出された友人を自宅に連れて帰って面倒を見ていた
また、渡辺晋さんは、お母さんの教育方針により、お小遣いをもらうことができなかったそうで、放課後は、外で遊ぶ代わりに、大勢の友達を家に引き連れて帰ったそうですが、
やがて、太平洋戦争が始まると、空襲で焼け出された友人も自宅に連れ帰り、面倒を見ていたといいます。
ただ、戦況が悪化すると、渡辺晋さんの一家も、宮城県登米郡佐沼に疎開し、その後、大分県別府に疎開したそうです。
渡辺晋は大学時代(20歳の時)飢えを凌ぐため「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」を結成していた
そんな渡辺晋さんは、1944年4月、17歳の時、疎開先から単身上京し、早稲田大学専門部法律科に入学すると、1947年、20歳の時には、早稲田大学法学部を受験し、見事、合格したそうですが、
渡辺晋さんの学生生活は、空腹との闘いだったそうで、復員軍人や引き揚げ者など、労働力があり余っていたことから、学生はアルバイトを見つけるのも困難だったといいます。
そんなある時、同じく早稲田大学近くの「改明館」に下宿していた、先輩でトロンボーン奏者だった塩崎達成さんに、
バンドなら食えるよ
と、アドバイスされたそうで、
渡辺晋さんは、ギターを始め、同じようなレベルの仲間を集めて、「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」というバンドを結成したそうです。
(ただ、スチール・ギターの湯沢弘さんがセミプロレベルだったのを除き、メンバーのほとんどが素人同然の急造バンドだったそうです)
渡辺晋は大学時代(20歳の時)初の興行でピンチに陥るも抜群のプロデュース力を発揮し大成功させていた
そして、親友の河合さんのお膳立てで、1948年1月3日、四国の映画館での興行が決まったそうですが、
(河合さんの実家は四国の坂出市にあり、河合さんの同級生が「平和館」という映画館経営者の息子だったことから、その「平和館」を借り切っての興行だったそうです)
渡辺晋さん率いる「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」の出演は、あくまで、早大軽音楽部のエース級でプロの間でも注目される腕前だった、バンド「サンヴァレー」の前座としての出演だったといいます。
そのため、渡辺晋さんら「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」のメンバーは、早くに来て、四国の正月を楽しんでいたそうですが、
ギリギリのスケジュールを組んでいた「サンヴァレー」が、公演当日、交通事情で来られなくなり、河合さんが、顔面蒼白で渡辺晋さんに相談しにきたそうで、
渡辺晋さんは、
仲間に無駄足だったとは言えんな。我々だって早大軽音楽部だ。オレたちだけでやろうじゃないか
と、決断すると、
まずは、「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」は、ハワイアンのスタンダード10曲ぐらいのレパートリーしかないバンドだったことから、
「早稲田大学復興資金募集」と手描きの看板を掲げて、演奏技術を大義名分で誤魔化し、坂出に帰省中の慶大生から学帽を借りてメンバーに被らせ、早慶応援歌の掛け合いを入れることにすると、
河合さんに同行してもらって、「金時会」という地元の子女に日本舞踊を教えているグループを訪ね、母校復興の趣旨を訴えて一緒に出演してほしいと、出演交渉し、
(渡辺晋さんは、「時間稼ぎにもなるし、ハワイアンに興味がなくても娘の舞台を見に両親が会場に来てくれる」と考えたのだそうです)
渡辺晋さん自身はベースを担当し、全く楽器が素人の河合さんにも、
弾く格好をして、舞台に立っていればいいんだよ
と言って、ウクレレを持たせてステージに立たせたそうで、
本番では、「金時会」メンバーの親戚や親御さんを動員し、客席を埋めることに成功したのだそうです。
ちなみに、後に、河合さんは、この時のことを、
満員の客席のあちらこちらからおひねりまで飛んでくるほどの大成功だった。これに味をしめて、追加公演ということになった。多度津、高松、そしてまた、坂出と、調子に乗って1日おきのハードスケジュールだ
と、語っています。
(これが渡辺晋さんの実質的なプロデューサーデビューだったそうです)
渡辺晋は24歳の時に「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成
その後、渡辺晋さんは、早稲田大学の下宿の「改明館」にいた、ジャズ・ピアニストの菊地滋弥さんに師事して本格的にベースを学び、
1949年、22歳の時には、米軍キャンプ周りをするためにコンボ(小編成の器楽グループ)を結成したそうですが、
1950年4月、23歳の時には、品川のキャンプ「バタフライ・クラブ」に出演することになり、メンバーを一新すると、バンド名も「ファイブ・ジョーンズ&ア・ジェーン」に改名し、都会的な「クール・ジャズ」を目指したそうです。
そして、その後も、メンバーの入れ替えを経て、1951年10月、24歳の時には、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成して、リーダーになったそうで、横浜のライブハウス「ザンジバル」を拠点に活動するようになったのだそうです。
「【画像】渡辺晋の若い頃(ナベプロ設立以降)から死去までの経歴は?」に続く
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ミュージシャンから芸能プロモーターへと転身すると、日本の芸能界の近代化を成し遂げるほか、テレビ時代の到来を見抜いて数々のスターを世に送り出し、著作権ビジネスの確立や海外アーティストの発掘にも尽力するなど、「ナベプロ帝国」 …







