日本最大級の芸能プロダクション「ナベプロ」こと、「渡辺プロダクション」を創設し、現在の芸能プロダクションの礎を築くほか、数々のスターを世に送り出し、日本のエンターテイメント界の発展に大きく貢献してきた、渡辺晋(わたなべ しん)さん。

そんな渡辺晋さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。

今回は、渡辺晋さんの妻・渡邊美佐さんとの馴れ初め、結婚に至った経緯、結婚後の夫婦関係などのエピソードや、子供(娘)についてご紹介します。

渡辺晋

「【画像】渡辺晋の若い頃(ナベプロ設立以降)から死去までの経歴は?」からの続き

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渡辺晋の妻・渡邊美佐との馴れ初めは?

渡辺晋さんは、1955年3月、28歳の時、マネージャーだった曲直瀬美佐(渡邊美佐)さん(26歳)と結婚しています。

渡辺晋さんは、1951年10月、バンド「シックス・ジョーズ」を結成し、横浜のライブハウス「ザンジバル」を拠点に活動していたそうですが、本格的な東京進出を目論み、自分以上のフットワークのマネージャーを探していたそうで、

そんな中、プロの間でもその手腕が評判になっていた、学生マネージャーの曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんの噂を伝え聞いて、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんに会いに行き、

単刀直入に、

うちのマネージャーもやってくれないか

と、依頼したそうですが、

これが、渡辺晋さんと曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんの出会いだったそうです。

(渡辺晋さんは、以前、仙台で、「オリエンタル芸能社」を経営していた、渡邊美佐さんの母親・曲直瀬花子さんと面識があり、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんには、親譲りの才能があると確信していたそうです)

渡辺晋は渡邊美佐にプロポーズを何度も繰り返していた

すると、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんは、当初は、「週末だけなら」という条件で「シックス・ジョーズ」のマネージャーを受けてくれたそうですが、

1952年から、本格的に「シックス・ジョーズ」のマネジメントに加わると、持ち前の経営手腕を発揮して、「シックス・ジョーズ」はまたたく間にスターダムへと駆け上がったといいます。

(「シックス・ジョーズ」は、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんの手腕で、横浜のライブハウス「ザンジバル」から、横浜のクラブ「ハト」に進出したそうですが、その後も、日本橋の「マキシム」、新橋の「ロッカー・フォー」へも拠点を広げたそうです)

また、渡邊美佐さんは、日比谷公会堂で「オールスター・ジャズ・コンサート」を主催するなど、その動きは単なるマネージャーを超え、プロモーターとしての才覚に溢れていたそうで、

渡辺晋さんは、そんな曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんの圧倒的な行動力を高く評価し、ビジネスパートナーとして、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんに、絶対的な信頼を置くようになったそうで

「シックス・ジョーンズ」が絶頂期だった1953年には、

日本のジャズは曲がり角に来ている。新しいビジネスの方向性を考えない限り、向上はない

そのビジネスには君がぜひとも必要なんだ

と、熱く夢を語りながら、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんにプロポーズしたそうですが・・・

曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんには、

その主義主張は結構よ。でも、それだけなら結婚しなくても仕事の範囲に収まることでしょう

と、残酷なまでに冷静に断られてしまったといいます。

これに対し、渡辺晋さんは、「確かにそのとおりだ」と納得したそうですが、それでも、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんと公私ともに生涯のパートナーになることにこだわり、

事あるごとに、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんに、

結婚しよう

と、プロポーズを繰り返したそうで、

最終的には、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さんもプロポーズを受け入れてくれ、婚約したそうで、

渡辺晋さんは、1955年1月、曲直瀬美佐(渡邊美佐)さん、親友の山田通男さんと3人で、「渡辺プロダクション」を設立した後、同年3月、渡邊美佐さんと結婚したのだそうです。

渡辺晋は妻・渡邊美佐と会社の資金繰りに奔走する日々を送っていた

ただ、そんな2人の新婚生活は、一般的な甘い新婚家庭のイメージとは程遠く、資金繰りに奔走する毎日だったといいます。

というのも、当時は、芸能プロダクションという得体の知れない業種に融資してくれる銀行などなかったそうで、結婚資金まで会社の運転資金に回していたそうですが、何より、月給制を導入したことが資金繰りを苦しくしていたのだそうです。

また、追い打ちをかけるように、ジャズブームもすっかり去り(安定して仕事があったのは「シックス・ジョーズ」くらいだったそうです)、結成したばかりの「クレイジー・キャッツ」には、週末のクラブ演奏ぐらいしか仕事がなかったそうですが、

それでも、同世代のサラリーマンをはるかに超えるほどのお給料を支払っていたそうで、資金繰りは火の車だったのだそうです。

(渡邊美佐さんは、後に、支給日が来るのが恐ろしかったと語っています)

ちなみに、渡辺晋さんが、「クレイジー・キャッツ」のボーカルのハナ肇さんに、お給料を支払えないでいると、

ハナ肇さんには、

じゃあ、ママさん(渡邊美佐さんの母親の曲直瀬花子さん)のところに行こう

と、(悪びれずに)言われたそうで、

渡辺晋さんと渡邊美佐さんが、ハナ肇さんを連れて、渡邊美佐さんの実家に行くと、お客をもてなすことが大好きだった渡邊美佐さんの両親は、ハナ肇さんを歓迎してくれたそうで、

ハナ肇さんが、持ち前の話芸で大いに笑わせ、場がすっかり和んだタイミングで、

渡辺晋さんが、

すみません、実はこいつに払う金がないんです

と、切り出し、お金をもらっていたそうで、

「渡辺プロダクション」は、渡辺晋さんの妻・渡邊美佐さんの実家「マナセプロダクション」の援助を受けながら、最も苦しい時期を乗り越えたのだそうです。

それでも、渡辺晋さんと渡邊美佐さんは、夜ごと、音楽仲間と理想のエンターテインメントを語り合ったそうで、

そんな中、夫婦という枠を超え、”戦友”としての絆(きずな)を育んだそうで、この強固な結びつきこそが、後に日本の芸能界を塗り替える革命の原動力となったのでした。

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渡辺晋の子供は娘が2人

そんな渡辺晋さんと渡邊美佐さんの間には、女の子が2人誕生しています。

娘(長女)は渡辺ミキ

渡辺晋さんの長女は、1960年4月23日に誕生した、「ワタナベエンターテインメント」代表取締役社長の渡辺ミキ(わたなべ みき)さんで、

渡辺ミキさんは、日本女子大学国文科を卒業後は、お父さんである渡辺晋さんに経営を学びながら、舞台のプロデュースを手掛け、1986年には、「渡辺エンタープライズ」の代表取締役に就任しているのですが、

翌年の1987年に渡辺晋さんが他界した後は、「渡辺プロダクション」の取締役となり、1995年には、同社代表取締役副社長に就任しています。

そして、2000年には、自ら「ワタナベエンターテインメント」を設立して、代表取締役社長に就任すると、2004年には、「ワタナベエンターテイメントカレッジ」および「ワタナベコメディスクール」も開校し、理事長として次世代の育成にも注力しています。

娘(次女)は渡邊万由美

渡辺晋さんの次女は、1962年頃に誕生した、「渡辺プロダクション」の代表取締役社長、渡邊万由美(わたなべ まゆみ)さんで、

渡邊万由美さんは、日本女子大学文学部卒業後、「電通」に入社すると、1986年には、「渡辺プロダクション」の関連会社「渡辺エンタープライズ」の取締役に就任しているのですが、

翌1987年にお父さんである渡辺晋さんが他界すると、同年3月、姉の渡辺ミキさんとともに、「渡辺プロダクション」の取締役に就任しています。

そして、1995年には、自ら、芸能プロダクション「トップ・コート」を設立すると、中村倫也さん、菅田将暉さん、松坂桃李さん、木村佳乃さん、趣里さん、佐々木希さんら後にスターとなる人材を次々と輩出しています。

また、2011年には、「渡辺プロダクション」の代表取締役社長に就任し、「トップ・コート」の代表取締役社長と兼任しています。

渡辺晋の家系図
渡辺晋さんの家系図。

さて、いかがでしたでしょうか。

渡辺晋さんの、

  • 渡辺晋の家系図は?生い立ちは?大学時代からプロデュースの才能を発揮!
    • 渡辺晋の家系図とプロフィール
    • 渡辺晋が幼い頃は父親の仕事の都合で各地を転々としていた
    • 渡辺晋は中学校時代には水泳部と弓道部の両方でリーダーを務めるなど早くもリーダーシップを発揮していた
    • 渡辺晋は中学時代に空襲で焼け出された友人を自宅に連れて帰って面倒を見ていた
    • 渡辺晋は大学時代(20歳の時)飢えを凌ぐため「早大ニュー・グリーン・ハワイアンズ」を結成していた
    • 渡辺晋は大学時代(20歳の時)初の興行でピンチに陥るも抜群のプロデュース力を発揮し大成功させていた
    • 渡辺晋は24歳の時に「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成
  • 【画像】渡辺晋の若い頃(ナベプロ設立以降)から死去までの経歴は?
    • 渡辺晋は24歳頃、ミュージシャンの待遇改善や専門マネージャーの必要性を強く感じるようになっていた
    • 渡辺晋は24~25歳の時、曲直瀬美佐(後の妻)がマネージャーとなり「シックス・ジョーズ」の人気がNo.1となっていた
    • 渡辺晋が人気絶頂期にバンドを解散してプロダクション設立へと舵を切った理由とは?
      • ジャズブームの終焉
      • 元バンドメンバーの突然の入院
    • 渡辺晋は27歳の時に「渡辺プロダクション」を設立していた
    • 渡辺晋は27歳の時に「渡辺プロダクション」設立と同時に近代的なシステムを導入していた
      • 月給制の導入
      • 組織的なマネジメント
    • 渡辺晋は34歳頃、テレビを使って「ハナ肇とクレイジーキャッツ」や「ザ・ピーナッツ」を爆発的にヒットさせていた
    • 渡辺晋は30代頃、著作権ビジネスを収益の柱にしていた
    • 渡辺晋は48歳の時にロックバンド「クイーン」を世界に先駆けて日本でブレイクさせていた
    • 渡辺晋が46歳頃、絶対的な権力を持つ”ナベプロ帝国”は崩壊していた
    • 渡辺晋の死因は?
    • 渡辺晋の受賞・受章歴
  • 渡辺晋の妻・渡邊美佐との馴れ初めは?子供(娘)は渡辺ミキと渡邊万由美!
    • 渡辺晋の妻・渡邊美佐との馴れ初めは?
    • 渡辺晋は渡邊美佐にプロポーズを何度も繰り返していた
    • 渡辺晋は妻・渡邊美佐と会社の資金繰りに奔走する日々を送っていた
    • 渡辺晋の子供は娘が2人
      • 娘(長女)は渡辺ミキ
      • 娘(次女)は渡邊万由美

について、ご紹介しました。

戦後の苦しい時代、ジャズマンとして音楽活動をする中、卓越した演出力と統率力を発揮すると、やがて、ジャズマンとしてだけでなく、音楽家が安心して活動できる環境づくりを志して、自ら「渡辺プロダクション」を設立し、月給制や組織的マネジメントを導入して、日本の芸能界に新しい仕組みを築き上げた渡辺晋さん。

そんな渡辺晋さんが遺したエンターテイメント業界における先見性と功績は、今もなお芸能界に礎として生き続けており、これからも末永く語り継がれていくことでしょう。

お読みいただきありがとうございました

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