1957年、新バンド「堀威夫とスイング・ウエスト」を結成し、「渡辺プロダクション」と契約を結ぶも、副社長の渡邊美佐さんとの間に亀裂が生じ、「渡辺プロダクション」から独立すると、
同じく、渡辺美佐さんに強い不満を持っていた、ジャズ喫茶「ACB」のオーナーと意気投合し、二人で芸能事務所「東洋企画」を立ち上げたという、堀威夫(ほり たけお)さんですが、思わぬ裏切りに遭っていたといいます。
今回は、堀威夫さんの若い頃(「渡辺プロダクション」から独立~「東洋企画」を解雇)をご紹介します。

「堀威夫の若い頃はワゴンマスターズやスイングウエストでギタリスト!」からの続き
堀威夫は25歳頃「渡辺プロダクション」の副社長・渡辺美佐との間に亀裂が生じ始めていた
実質的なマネージメントは堀威夫さんが行うという条件のもと、新バンド「堀威夫とスイング・ウエスト」で「渡辺プロダクション」と契約を結んだ堀威夫さんは、「スウィング・ウエスト」のボーカル・守屋浩さんを懸命に売り出していたそうで、
(もともと、守屋浩さんは、「スウィング・ウエスト」のファンで、無給でいいからバンドボーイ(雑用係)にしてほしいと懇願し、高校生でバンドボーイをしていたのですが、堀威夫さんが守屋浩さんの才能を見抜き、守屋浩さんを歌手として売り出したのだそうです)
その甲斐あって、守屋浩さんは、ほとんど実績がないにもかかわらず、ロカビリースターたちが総出演した映画「檻の中の野郎たち」の主演に抜擢されたそうですが、
「渡辺プロダクション」の副社長で、実権を握っていた渡邊美佐さんは、自身が推薦するタレントを「檻の中の野郎たち」に入れたかったことから、守屋浩さんが入ったことに強い不満を持っていたそうで、
このことを耳にした堀威夫さんも、(「檻の中の野郎たち」は、もともとは、堀威夫さんが企画した「日劇ウエスタンカーニバル」から派生した映画だったことから)自身が天塩にかけて育てた新人が1人くらい出演して何の文句があるのかと激怒し、渡辺美佐さんとの間に大きな亀裂が入ったそうです。
(堀威夫さんは、守屋浩さんを、水原弘さん、井上ひろしさんと共に、「三人ひろし」というユニットでも売り出し、守屋浩さんの人気を押し上げています)
堀威夫は26歳の時に「渡辺プロダクション」から独立していた
また、もともと、渡辺美佐さんとは役割分担をしていたそうで、日劇を運営する東宝との折衝など、表の仕事は渡辺美佐さん、ロカビリーのイベントを取り仕切るなど、裏方の仕事は堀威夫さんがしていたそうですが、
表の仕事を担当していた渡辺美佐さんも、ロカビリーのイベントを取り仕切るなどの裏方の仕事をそれらしくできるようになっていったことから、
やがて、渡辺美佐さんは、「マダム・ロカビリー」と称され、たちまち、マスコミから注目を集め、あたかも、渡辺美佐さんがロカビリーをプロモートしているかのようになっていったといいます。
こうして、確固たる実績がないにもかかわらず、なんとなく力を持ってしまったという渡辺美佐さんは、ロカビリーのスターたちと契約を交わし、「渡辺プロダクション」の傘下に置くことができるまでになっていったそうで、
堀威夫さんを慕ってくれていたタレントたちも、やむを得ず、「渡辺プロダクション」の意向に従わざるを得なくなっていったのだそうです。
このことから、堀威夫さんは、「渡辺プロダクション」という巨大組織の中では、どれだけ質的に自分たちのほうが優れていると思っていても、大きな集団の力には歯が立たないことを痛感し、
いいバンドを一つ作りあげていけばいいという考えでは、この芸能界で生き残ることができない。質と量の両方がある程度そろって初めて力になるんだ。
と学び、
単なる「バンドリーダー」や「雇われマネージャー」で終わるのではなく、自分の理想とするマネジメントを行いたいと考えるようになったそうで、
1958年、26歳の時、(渡辺晋社長には引き止められたものの)「スイング・ウエスト」を率いて「渡辺プロダクション」から独立したのだそうです。
堀威夫は28歳の時に「銀座ACB」の谷富次郎と「東洋企画株式会社」を設立していた
こうして、「渡辺プロダクション」から独立した堀威夫さんは、ジャズ喫茶「銀座ACB」への出演が貴重な収入源となっていたそうですが、
「銀座ACB」のオーナー・谷富次郎氏も、渡辺美佐さんに強い不満を抱いていたことから、2人は意気投合したそうで、
自然の流れで手を組むことになると、1960年、「渡辺プロダクション」に対抗するため、芸能プロダクション「東洋企画株式会社」を設立したのだそうです。
ちなみに、堀威夫さんは、社長に推挙されたそうですが、まだ、20代半ばの現役のプレイヤーで照れなどもあったことから断ったそうで、(名目上の)社長には谷富次郎氏になってもらい、実質的な経営は、堀威夫さんがしたのだそうです。
堀威夫は28歳の時にささきいさお、佐川満男、三根ヨシオらを発掘していた
その後、元「ウエスタン・キャラバン」のリーダーで、現役を引退した相澤秀禎さんが、「東洋企画」にマネージャーとして参加すると、
堀威夫さんは、相澤秀禎さんと共に、ささきいさおさん、佐川満男さん、三根ヨシオさん(ディック・ミネさんの三男)らを次々とスカウトし、”打倒・渡辺プロ”を旗印に、「東洋企画」の陣容を拡大させていったそうで、
そんな中、守屋浩さんの後任として、「スイング・ウエスト」のボーカルをしていた佐川満男さんを、「二人の並木径」でデビューさせると、これがヒットし、「東洋企画」は、守屋浩さんと「スイング・ウエスト」の二枚看板となることに成功したそうです。
そして、ささきいさおさん、佐川満男さん、三根ヨシオさんの3人を「ひまわり三人組」として売り出したそうで、「東洋企画」も「渡辺プロダクション」と戦うのに十分な布陣が揃ったのだそうです。
堀威夫は27歳の時にプレイヤーとして現役を引退していた
また、堀威夫さんは、1960年1月には、プレイヤーとしてはここが潮時、これからは裏方に専念しようと、現役引退を決意し、
同年4月には、両国の日大講堂で行われた「さよならニール・セダカ」の公演を最後にステージを降りていたといいます。
(堀威夫さんは、表舞台から去る覚悟はとっくにできていたはずだったそうですが、鳴り止まない拍手の中、スポットライトに照らされると、涙をこらえることができなかったそうです)
堀威夫は28歳の時にクーデターに遭い「東洋企画」を解雇されていた
しかし、同年(1960年)秋のある日のこと、堀威夫さんが「東洋企画」の事務所に行くと、鍵がかかっていて中に入ることができなかったといいます。
なんと、堀威夫さんは、突然、社長の谷富次郎氏のクーデターに遭い、「東洋企画」を解雇されていたというのです。
(堀威夫さんが事務所に入ることができずに途方に暮れ、弟分の田邊昭知さんに電話すると、田邊昭知さんはすぐに駆けつけてくれたそうです)
さらに、それだけではなく、登記から開業まで全て、掘威夫さんが捻出した資金で会社の経営を行っていたにもかかわらず、事務所はもちろん、備品、社用車、銀行預金に至るまで、会社名義のものはすべて谷富次郎氏のものとなっていたそうで、返還を要求することすらできなかったのだそうです。
(実質的には、堀威夫さんがオーナーだったものの、名目上は、あくまで、「東洋企画」の社長は谷富次郎氏だったことから、法的には、谷富次郎氏の会社となっていたのでした)
堀威夫は谷富次郎から恨みを買っていた
実は、このクーデターには伏線があったそうで、1960年7月、所属タレントの守屋浩さんが、当時の大スター・島倉千代子さんと、1ヶ月間、「歌舞伎座」で公演することが決まったそうですが、
(これは、守屋浩さんの「格」(スタータス)を上げる大きなチャンスだったそうです)
当時の「東洋企画」にとって守屋浩さんは稼ぎ頭であり、守屋浩さんが「歌舞伎座」にかかりきりになると、他の営業や仕事ができなくなってしまうことから、
ジャズ喫茶「ACB」のオーナーでもある谷富次郎氏は、これに難色を示し、
何とか1日でも(「ACB」に守屋浩さんを)出演できるようにならないか
と、必死に堀威夫さんに頼み込んでいたのだそうです。
しかし、堀威夫さんは、これを断っていたそうで、
谷富次郎氏は、
ACBと歌舞伎座、どっちが大事なんだ!
と、激昂。
また、谷富次郎氏は、「歌舞伎座」以上のギャラを出すとも言ったそうですが、
堀威夫さんは、
銭金(ぜにかね)の問題じゃないんです。格の問題なんですから
と、再び断っていたそうで、
守屋浩さんの「格」(ステータス)を上げたい(長い目で見てもっと大きな利益を生み出したい)堀威夫さんと、自身が経営するジャズ喫茶「ACB」のことで頭がいっぱいで、目の前の売上を最優先したい谷富次郎氏の間の溝は埋まらないまま、「歌舞伎座」公演が行われたのだそうです。
すると、公演は大成功を収め、守屋浩さんは有名になり、それに伴い大きな収益が「東洋企画」に舞い込んだそうですが・・・
激怒していた谷富次郎氏は、堀威夫さんに気づかれないように、社員や所属タレントの懐柔(かいじゅう)を始めていたそうで、
その結果、堀威夫さんが育てた、ささきいさおさん、佐川満男さんら多くのタレントやスタッフに加え、盟友の相澤秀貞さんや「スイング・ウエスト」まで「東洋企画」に残り、
(谷富次郎氏は、ささきいさおさんや佐川満男さんに対しては、親から懐柔したそうです)
堀威夫さんのポジションだった専務の座には、堀威夫さんが「スイング・ウエスト」のリーダーを譲った大森俊雄さんが就いたのだそうです。
「【画像】堀威夫の若い頃(ホリプロ設立以降)から現在までの経歴は?」に続く
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