大学卒業に伴い、伝統に従って「ワゴン・マスターズ」を辞めると、その後は、自身のバンド「キャクタス・ワゴン」を結成するも、復帰要請を受け、「ワゴン・マスターズ」に復帰したという、堀威夫(ほり たけお)さんですが、
復帰した「ワゴン・マスターズ」では、現状維持を望むメンバーたちと考えが合わず、やがて、再び、脱退したといいます。
今回は、堀威夫さんの若い頃(「キャクタス・ワゴン」「ワゴン・マスターズ」「スイング・ウエスト」でのギタリスト時代)をご紹介します。

「堀威夫の家系図は?生い立ちは?大学でワゴンマスターズにスカウトされていた!」からの続き
堀威夫は伝統に従い大学卒業に伴って「ワゴン・マスターズ」を辞めていた
大学4年間、「ワゴン・マスターズ」のギタリストとして活動していた堀威夫さんですが、「ワゴン・マスターズ」には、”全員学生でないといけない”という伝統があったそうで(つまり、大学を卒業前に辞めなくてはいけなかった)、
堀威夫さんも、伝統に従い、「ワゴン・マスターズ」を辞めたそうです。
堀威夫は大学卒業後の22歳の時に新バンド結成にあたり田邊昭知にドラムをやるよう声をかけていた
そんな堀威夫さんは、就職活動を始めたそうですが、当時は、朝鮮戦争特需が終わり、不況の真っ只中だったそうで、
(一流企業も採用を控えていたそうです)
大学時代に勉強をおろそかにしていた堀威夫さんは、どこにも就職できなかったそうです。
かといって、「ワゴン・マスターズ」にも戻れずで、どこにも行くところがなかった堀威夫さんは、しばらく、ブラブラと何もない日々を過ごしていたそうですが、
やはり、自分には音楽しかないと思い立ち、バンドを結成しようと、すぐにメンバー集めを始めると、真っ先に声をかけたのが、「ワゴン・マスターズ」時代、雑用係をやっていた田邊昭知さんだったといいます。
(田邊昭知さんも、その頃、「ワゴン・マスターズ」を辞めていたそうです)
そして、田邊昭知さんにはドラマーになることを勧めたといいます。
実は、当時、日本のバンドでドラムがいることは珍しかったそうですが、1955年、アメリカ映画「暴力教室」が公開されるやいなや大ヒットとなり、
ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによる主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が爆発的なヒットとなって、ロック・ブームが巻き起こっていたそうで、
堀威夫さんは、次は、ロックとカントリーが融合したロカビリーが流行るに違いないと予見し、新バンドの個性を際立たせるため、ロカビリーの演奏に必要なドラムを導入しようと思ったのだそうです。
堀威夫は22歳の時に新バンド「キャクタス・ワゴン」を結成していた
その後、堀威夫さんは、田邊昭知さん以外にも、ボーカルの松本昇さんと池田隆さん、ベースの植田嘉靖(うえだ よしやす)さんを集めて、新バンド「キャクタス・ワゴン」を結成するも、
堀威夫さん以外は、ほとんどアマチュアレベルで、バンドとしては厳しい船出となったそうですが、
初めてバンドリーダーを務める堀威夫さんにとっては、希望に満ちたものだったそうです。
堀威夫は22歳頃に「キャクタス・ワゴン」から「ワゴン・マスターズ」に復帰していた
ただ、「キャクタス・ワゴン」を始めて半年ほど経った頃、かつて在籍していた「ワゴン・マスターズ」から、主要メンバーだった鳥尾敬孝さんが脱退したことで、復帰要請を受けたそうで、
堀威夫さんは、「キャクタス・ワゴン」のメンバーの了承を得て、「ワゴン・マスターズ」に復帰したのだそうです。
堀威夫はドラムの必要性を主張するも受け入れられず「ワゴン・マスターズ」を再び脱退していた
そんな中、当時は海外のヒット曲を日本語でカバーすることが主流で、エルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」などのロカビリーが大流行していたそうですが、当時の「ワゴン・マスターズ」には正規のドラマーがいなかったそうで、
レコーディングでは代役のドラマーを起用していたものの、ライブでは、人気曲を披露しても、ドラムがいないため、どうしても迫力不足(間が抜けた状態)だったそうで、
堀威夫さんが、ドラムを正式に加入させるべきだと主張したそうですが、保守的な他のメンバーから猛反対を受けたといいます。
また、ちょうどその頃、ウエスタンバンド出身の小坂一也さんが流行歌手としてブレイクし、「日劇ウエスタンカーニバル」側も、小坂一也さんをメインに据えるため、そのバックバンドを求めていたそうですが、
「ワゴン・マスターズ」のメンバーたちも、
売れている小坂と一緒にやっていれば安泰だ。あえてリスクを冒す必要はない
との考えだったそうで、
このままではワゴン・マスターズが、単なる小坂一也の『伴奏バンド』に成り下がってしまう
と、強い危機感を抱いた堀威夫さんは、現状維持を望むメンバーとの溝を埋めることができず、ボーカルの寺本圭一さんと共に、再び、「ワゴン・マスターズ」を脱退したのだそうです。
堀威夫は24歳の時に「堀威夫とスイング・ウエスト」を結成していた
その後、堀威夫さんは、1957年3月31日、寺本圭一さんと共に、新バンド「堀威夫とスイング・ウエスト」を結成し、活動を開始すると、同年、実質的なマネージメントは堀威夫さんが行うという条件のもと、「渡辺プロダクション」と契約を結んだそうで、
(肝心のドラムには、弟分の田邊昭知さんを呼び寄せるほか、フィドルを2人加入させて、9人編成だったそうで、当時として斬新な編成だったそうです)
「ヤング・ラブ」という曲でレコードデビューが決まったそうですが・・・
なぜか、お蔵入りとなってしまい、予定していたテレビ出演やコンサートも次々とキャンセルされたといいます。
実は、「ワゴン・マスターズ」のマネージャーが妨害していたそうで、これを知った堀威夫さんたちは、ますます、闘志を燃やし、演奏に力を入れたそうで、
その甲斐あり、「堀威夫とスイング・ウエスト」は、1957年末に発表された音楽雑誌「ミュージック・ライフ」誌の人気投票で、「ワゴン・マスターズ」らを抑え、1位に輝いたのだそうです。
「堀威夫が若い頃は東洋企画でクーデターに遭い事務所を解雇されていた!」に続く

「堀威夫とスイング・ウエスト」時代の堀威夫さん(左から3番目)。
![]()



