成蹊大学法学部卒業後、ニッポン放送に入社し、「尾行マン」「沈黙の艦隊」などをヒットさせると、その後、父・堀威夫さんが創業した芸能プロダクション「ホリプロ」に入社し、現在は、「ホリプロ」の社長・グループ会長として、日本の文化・エンターテイメント界を牽引している、堀義貴(ほり よしたか)さん。

そんな堀義貴さんは、幼い頃から中学時代まで、萩本欽一さんの大ファンで、萩本欽一さんの弟子になることを夢見ていたそうですが、中学3年生の時、お父さんに切り出すと、大反対され、断念していたといいます。

今回は、堀義貴さんの生い立ち(幼少期~大学時代)を時系列でご紹介します。

堀義貴

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堀義貴のプロフィール

堀義貴さんは、1966年6月20日生まれ、
東京都赤坂の出身、

学歴は、
暁星幼稚園
⇒暁星小学校
⇒暁星中学校・高等学校
⇒成蹊大学法学部卒業

趣味は、映画、ショッピング、ゲーム、商店街ウォッチング、音楽鑑賞、

ちなみに、「堀義貴」は本名で、お父さんは、芸能プロダクション「ホリプロ」の創業者で元会長の堀威夫さん、お兄さんは、「ホリプロ・エンターテインメント・グループ・インク(HoriPro Entertainment Group, Inc.)」社長の堀一貴さんです。

堀義貴が幼い頃は東京・赤坂の繁華街のど真ん中の狭いアパートで育っていた

堀義貴さんは、お父さんの堀威夫さんとお母さんの百合子さんのもと、2人兄弟の次男として、東京都渋谷区広尾の日赤病院で誕生すると、家の周りにはキャバレーが立ち並び、夜な夜な酔っ払いの騒ぎ声が響く、東京・赤坂の繁華街のど真ん中で育ったそうで、

当時はまだ人力車が行き交っていたことから、親からは「夕方過ぎたら絶対に外に出てはいけない」ときつく言いつけられていたそうです。

しかも、家が狭かったことから、堀義貴さんは、小学校に入るまでベビーベッドに寝ていたそうで、

堀義貴さんは、

家が狭すぎて、小学校に入るまでずっとベビーベッドで寝ていたんです。親からは、僕の背が低いのはそのせいだなんて言われていますよ(笑)

と、冗談交じりに語っています

(家が狭く汚かったことから、友達を家に呼ぼうとすると、お母さんは嫌がったそうです)

堀義貴が幼い頃は子供心に自身の家庭に違和感を感じていた

また、堀義貴さんは、小学校に入学する頃まで、自分の父親がどのような仕事をしているのか全く理解しておらず、

周囲から、

お父さんは何のお仕事をしているの?

と、尋ねられると、

疑うことなく

サラリーマンだよ

と、答えていたそうですが、

なぜか、守屋浩さんや鈴木ヒロミツさんといった当時のスターたちが頻繁に自宅へやってきたり、お父さんが常に不在で、夜中にこっそり帰宅し、明け方にはまたいなくなっていたことは、子供心に不思議に感じていたそうです。

堀義貴が幼い頃、父・堀威夫率いる「ホリプロ」は激動の真っ只中だった

ちなみに、堀義貴さんが誕生した頃、父・堀威夫さんが率いる「ホリプロ」は激動の真っ只中だったそうで、

舟木一夫さんの爆発的ヒットで急成長したものの、舟木一夫さんがわずか9ヶ月で独立すると、追い打ちをかけるように、稼ぎ頭だった守屋浩さんが飲酒運転で謹慎処分となって、一時は収入がゼロになるほどの危機に陥り、

(税務署が自宅の家財道具を差し押さえに来たそうです)

その後、グループサウンズ(GS)ブームが到来し、「田邊昭知ザ・スパイダース」が大ヒットするも、当時は権利ビジネスの意識が薄く、入ってきた大金をそのまま接待や遊びに使ってしまう時代だったこともあり、GSブームが去ると、手元には何も残らなかったそうです。

ただ、堀義貴さんが誕生した2年後の1968年には、後に「ホリプロ」の大黒柱となる和田アキ子さんがデビューし、ここから会社は再び上昇気流に乗ったそうで、

(それでも、しばらくは、「宵越しの銭は持たない」というお父さんのスタイルにより、生活に余裕は感じられなかったそうですが)

やがて、和田アキ子さんのほか、山口百恵さん、森昌子さんらスターが揃い、山口百恵さんが絶頂期を迎えたことで、

赤坂のマンションから世田谷区・砧の一軒家へ移るなど、堀義貴さんも、暮らしが劇的に変わったことを実感したのだそうです。

堀義貴の少年時代は父・堀威夫に音楽的な環境を一切与えられなかった

また、堀義貴さんは、お父さんが、昔ミュージシャン(ギタリスト)だったことをずっと知らなかったそうですが、

中学生のある日、カラオケ代わりに、お父さんが弾き語りをやってくれたことがあったそうで、

堀義貴さんが、思わず、

ギター弾けるんだ、うまいね

と、漏らすと、

お父さんは、かつての栄光を物語る古い写真や雑誌を見せ、

俺はこれぐらいすごかったんだ

と、初めて明かしたそうで、

堀義貴さんは、

それならギターを教えてくれればよかったのに

と、言ったそうですが、

お父さんは、

あんなことをやったら、ろくな奴にならない

と言い、音楽的な環境は全く与えてくれなかったそうで、

堀義貴さんは、

周りがみんな毎晩博打(バクチ)やってるような環境じゃないですか。だからあんな所に入ったらろくな奴にならないと思ってたんでしょうね。

と、語っています。

(お父さんの堀威夫さんは、1960年代に「堀威夫とスウィング・ウエスト」を率いてカントリー&ウェスタン界の大スターとして一世を風靡し、当時の人気雑誌「MUSIC LIFE」の楽器別人気投票では、何年もの間トップに君臨し続けるほどの実力者だったのですが、1960年に「ホリプロ」を創業した際、「二度と楽器は弾かない」と決意してギターを捨てていたそうで、その徹底ぶりは凄まじく、自宅には楽器はひとつも置かれていなかったそうです)

堀義貴は少年時代に萩本欽一に憧れ弟子入りを希望するも父・堀威夫に反対され断念していた

ところで、堀義貴さんは、子供の頃から高校生になる頃ぐらいまで、萩本欽一さんの大ファンで、しかも、単なるファンにとどまらず、本気で、

将来は欽ちゃんの弟子になるんだ

と、心に決めていたそうで、

小学校3年生のある夜、お父さんが萩本欽一さんに会うことになったことから、一緒に連れて行ってもらい、渋谷の喫茶店で萩本欽一さんと対面したそうですが、

普段から落ち着きがなく、お父さんの隣でちょこちょこ動いていた堀義貴さんを見た萩本欽一さんが、帰り際、

この子はいいコメディアンになるね

と、言葉をかけてくれたそうで、

この一言を胸に成長した堀義貴さんは、中学3年生の時、人気番組「欽ドンの良い子悪い子普通の子」で「フツオ」役の長江健次さんが降板し、後任オーディションが募集された際、

お父さんに、

欽ちゃんの弟子になろうと思うんだけど

と、相談を持ちかけたそうですが、

お父さんには、

お前、それだけはやめてくれ。タレントなんていうのは本当に大変なんだ。最後には身ぐるみ剥がされちゃうんだぞ

と、猛反対されたそうで、

堀義貴さんは、コメディアンの道を断念したそうです。

堀義貴は高校1年生の時に学園祭で屋外イベントの仕切りをして大勢の前で喋る楽しさに目覚めていた

そんな堀義貴さんは、もともと身内でのモノマネなどは得意だったものの、不特定多数の前に立つことは苦手だったそうですが、

高校1年生の時、学園祭で屋外イベントの仕切りをし、自らマイクを握って先生のモノマネなどを披露すると、大勢の観客を前に喋る楽しさに目覚めたそうで、

堀義貴さんは、

表に出るのはこんな気持ちいいのかって目覚めましたね

それ以来、人前で喋ることが大好きになったんです。

と、語っています。

堀義貴は高校生の時にプロデューサー的な役割にも目覚め始めていた

また、堀義貴さんは、人前に立つ楽しさを知った一方で、冷静に全体を俯瞰(ふかん)するプロデューサー的な役割にも目覚め始めたそうで、

誰かが舞台で芝居などをやっているのを、後ろで「ふむふむ」と見ている方が面白いことにも気がついたといいます。

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堀義貴の大学時代はバブル絶頂期で麻雀、飲み会、ディスコに明け暮れる毎日だった

そんな中、堀義貴さんは、高校卒業後、大学に進学すると、大学時代は、バブル絶頂期だったことから、大学の4年間は、ひたすら、麻雀、飲み会、ディスコ通いの毎日で、ほとんど大学には通っていなかったそうで、

(当時は売り手市場だったこともあり、将来の不安や期待などまったく感じることなく、楽しい4年間を過ごしたのだそうです)

堀義貴さんは、大学時代について、

(ディスコで踊り狂っている間に大学時代が)終わっちゃいましたねぇ。まず学校行きませんでしたからね。朝は行くんですけど、校門入るとき誰かが声かけてきて「おー堀!麻雀やるぞ」って言ってそのまま門から出ちゃうとか・・・(笑)。

それで気づいたらもう夜中になっちゃう。あと朝方の授業に出て、次が4限とか午後の授業だと3時間ぐらい空いちゃうでしょう。それで友達と有り金を数えて養老乃瀧に行って、1000円とか800円とかぐらいで「これで飲めるだけ下さい」って。

昼間だからまたビールが冷えてるんですよ(笑)。

昼間から飲んじゃって、けっきょく授業行くのが面倒くさくなって、「俺の家で飲むか」とか・・・そういうことばっかりですよ。

と、語っています。

「堀義貴(堀威夫の息子)の若い頃はニッポン放送で「尾行マン」「沈黙の艦隊」!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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