萩本欽一の幼少期は父親が成功し大金持ちだった!


漫才コンビ「コント55号」で爆発的なブレイクを果たすと、その後も「視聴率100%男」と称されるなど、一躍、時代の寵児となった、萩本欽一(はぎもと きんいち)さん。今回は、そんな萩本さんの幼少期をご紹介します。

Sponsored Link

年齢は?出身は?身長は?本名は?

萩本さんは、1941年5月7日生まれ、
東京府東京市下谷区稲荷町(現・東京都台東区東上野3丁目)のご出身、

身長164センチ、
体重65キロ、

血液型はA型、

学歴は、
さいたま市立高砂小学校
⇒台東区立西町小学校
⇒台東区立御徒町中学校
⇒駒込高等学校
⇒駒沢大学仏教学部中退

趣味は、
絵画(墨絵)、園芸、麻雀、競馬、野球観戦、

特技は、将棋 、

ちなみに、「萩本欽一」は本名で、愛称は「欽ちゃん」「大将」です。

父親がカメラの仕事で大金持ちに

萩本さんは、東京・稲荷町の長屋でカメラ屋を営むお父さんと、お嬢様育ちのお母さんのもとに生まれると、稲荷町で幼少期を過ごされているのですが、実は、お父さんは、戦後、カメラの仕事で成功し、大金持ちになられていたのだそうです。

というのも、戦争中、東京は爆弾が落ちてくる危険が高かったことから、人々はこぞって田舎へと逃げて行ったのですが(疎開)、逃げるためのお金のない人は、お金に換えるため、お父さんのところに、故障したカメラやその部品を持ってきたそうで(ほとんどの人がカメラの仕事をしていた同業者だったそうです)、

しかも、お金に換えると言っても、時代が時代で、ほとんどタダ同然のような値段だったため、お父さんは安い資金で大量のカメラ部品を集めることができたそうで、

終戦後、集めたカメラの部品を組み立てて売り物にすると、飛ぶように売れたというのです。

ちなみに、一晩かけて50~60台作ったカメラが、たったの一時間足らずで全て売り切れ、売れた商品が、数時間後には銀座のカメラと関係ない店に置かれていたこともあったほか(買った人が値段を勝手に上乗せして商売をやっていた)、進駐軍のアメリカ人も、日本製のカメラは品質が良いということで、こぞって買っていったそうで、萩本さんのお父さんは、あっという間に大金持ちになられたのだそうです。

Sponsored Link

裕福な少年時代を過ごす

こうして、お父さんは埼玉県浦和市に家を建て、萩本さん一家は長屋から転居。萩本さんは、お坊ちゃんとして、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうで、

萩本さんによると、小学校の入学式では、ほとんどの子どもが、入学式に着る服がないのが当たり前で、きちんと白シャツを着ている子どもは4人くらいしかいなかったそうですが、萩本さんもその一人だったほか、

小学校入学後は、お父さんが、アルバムや写真を入れる額縁など希少価値のある様々なものを学校に寄付されており、その際、学校側に、さりげなく、

うちの息子は級長がいいかな

と、つぶやいたことで、そのまま萩本さんが級長をやることになったこともあったそうです。

(お父さんの、「級長になれば、自然と勉強するだろう」という考えからだったそうですが、実際、萩本さんは、小学校時代、とても成績が良かったそうです)

また、萩本家にはお手伝いさんが2人おり、夜になると、お手伝いさんがイソップ童話や「はなさかじいさん」などの絵本を読んでくれたそうで、

萩本さんは、この、絵本を読んでもらう時間がとにかく大好きで、後に、自身の人間形成に大きな影響を与えてくれたと語っておられました。

「萩本欽一の少年時代は母公認の父の愛人に遊んでもらっていた!」に続く

3歳の頃の萩本さん(右)と弟の悦久(よしひさ)さん(左)。

Sponsored Link

関連記事

サブコンテンツ

このページの先頭へ