「桜姫東文章」の白菊丸役で、三島由紀夫さんほか名だたる文化人たちを魅了するも、中村歌右衛門さんら歌舞伎界の大幹部たちに遠慮して、松竹に売出しを控えられていたという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、なぜ、「曾我綉侠御所染」では、時鳥役に抜擢され、売り出されたのでしょうか。今回は、坂東さんを売り出した仕掛人・伊藤信夫さんをご紹介します。

「坂東玉三郎は「曾我綉侠御所染」で可憐な娘役から非業の女方に転換していた!」からの続き

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国立劇場は左遷された人の吹き溜まりだった

日本にはそれまで国立の劇場はなく、1966年11月に初めて国立劇場が開場しているのですが、それに先立ち、東京宝塚劇場(東宝)に務めていた伊藤信夫さんという人が、8月に国立劇場の芸能部に移籍してきたそうで、伊藤さんは、演劇界の経験者を雇い入れたそうです。

ただ、入ってきたのは、(世界に誇る日本の国立劇場を作ろうと情熱や野心に燃えた者ではなく)東宝や松竹など他の劇団などで使い物にならなくなった人や、(仕事を何もせず、保身と責任逃れだけを考えているような)文部省や文化庁からの天下りなどばかりだったそうで、国立劇場は、そんな人々の吹き溜まりと化していたのだそうです。

加賀山直三は有能も煙たがられていた

また、伊藤さんの上司で、制作室長は、劇評家としても知られる加賀山直三さんだったそうですが、加賀山さんは、お芝居に精通し、知識は豊富で文章も書けるも、人間関係を円満に運ぶことが苦手だったほか、配役のアイディアはあっても、それを役者と交渉してまとめていくことができず、歌舞伎界では、長い間、煙たがられる存在で、自分の能力を発揮できずにいたそうで、

伊藤さんは、そんな上司の加賀山さんと、天下りの役人、さらには自分勝手な役者たちの間に挟まれた中で、なんとか、自分なりに、この国立劇場でやりたいことを考え、そのための作戦を練っていたそうです。

伊藤信夫は国立劇場でスター役者を育てる作戦を立てるも歌舞伎役者の中からスターを育てることは困難だった

すると、自身がかつて所属していた東宝には専属俳優が多くいたのに、国立劇場には専属俳優が一人もないことに気づいたそうで、国立劇場開場から1年が過ぎようとした頃には、国立劇場にスター役者が必要だということを強く感じ始めたそうです。

ただ、数多くいる歌舞伎役者の中からスターになりそうな役者を選び、育てていくのには、多くのハードルがあったそうです。

というのも、当時、若手でスター候補といえば、市川染五郎さん(現・二代目松本白鸚)、中村吉右衛門さん、尾上菊之助さん、市川新之助さん、尾上辰之助さんだったのですが、染五郎さんと吉右衛門さんは東宝に、菊之助さん、新之助さん、辰之助さんは松竹に所属していたため、東宝も松竹も、国立劇場には簡単に貸してくれそうになかったそうで、

そこで、若い役者たちを一人ずつ検討していったそうですが、人気が出そうな役者はすでにスター候補となっていたことから、この作戦も没(ボツ)になってしまったそうです。

(御曹司にもかかわらず人気がない役者なら松竹も貸してくれる可能性もあったそうですが、それではスターになれそうもないため、やる価値はなかったそうです)

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国立劇場で役者を売り出すには様々な問題があった

また、人選だけではなく、予算の問題もあり、たとえ、(松竹の役者で)人気が出そうな逸材が見つかったとしても、国立劇場は芸能プロダクションではなかったことから、あるのは公演ごとの制作費と宣伝費だけで、 一人の役者を売り出すための予算などはなく、

仮に、一人の役者を売り出すことに成功し、スターとなったとしても、松竹はすぐに貸してくれなくなってしまうだろうことが予想されるほか(松竹から役者を借りるのが前提だったそうです)、他の幹部役者や御曹司から妬まれ、妨害され、潰されてしまうかもしれないという恐れもあったことから、

「気づいたらスターになっていた」という状態を意図的に作り出さなければならなかったのだそうです。

「坂東玉三郎は国立劇場のスター役者には格好の存在だった!」に続く

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