1971年、「ザ・タイガース」が解散した後は、岸部一徳さんに誘われて、ニュー・ロック・バンド「PYG」に加入された、沢田研二(さわだ けんじ)さんですが、まもなくソロとして頭角を現すと、1973年には、ソロとして発売した6枚目のシングル「危険なふたり」が大ヒットを記録します。

「沢田研二はタイガース解散後は岸部一徳に誘われPYGに加入していた!」からの続き

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「PYG」として活動開始するも観客から罵声を浴びる

1971年、「ザ・タイガース」解散後は、ニュー・ロック・バンド「PYG」に参加し、萩原健一さんとともにツイン・ヴォーカルとして本格的なロックを目指した沢田さんですが、

同年3月、京都大学西部講堂で行われたロックフェスティバル「第1回 MOJO WEST」に、初めて「PYG」として出演されると、

当時、ロックは、反「体制(権力)」のジャンルだったにもかかわらず、「体制(権力)」そのものである、最大手の芸能事務所「渡辺プロダクション」所属のミュージシャンが、反「体制(権力)」の旗印であるロックを演奏することに対し、

観客からは、

「商業主義(儲かったら何でもありか)」
「芸能界が創り出したもの(ロックなんてまがいもの)」

と猛烈な罵声を浴び、会場は大混乱に陥ります。

(共演されていた内田裕也さんが観客を説得し、なんとか収拾したそうです)

また、翌月の4月に、日比谷野外音楽堂で開催された「日比谷ロック・フェスティバル」でも、「PYG」は、「帰れ」コールを浴びせられるほか、ステージ上にトマトや空き缶を投げつけられるなど大騒ぎとなります。

「PYG」と並行してソロ活動

そんな中でも、1971年4月10日には、ファーストシングル「花・太陽・雨」を、8月10日には、ファーストアルバム「PYG!」がリリースされると、アルバム「PYG!」は、オリコンアルバムチャートで10位を記録しているのですが、


「花・太陽・雨」


PYG!

11月1日には、萩原健一さんを前面に押し出す、「萩原健一+PYG」のクレジットで3枚目のシングル「もどらない日々」がリリースされると、


「もどらない日々」

同日、沢田さんも、ソロとしてのファーストシングル「君をのせて」をリリースし(ソロとしてのファーストアルバムは既に1969年12月15日にリリース)、


「君をのせて」

12月21日には、ソロとしての2枚目のアルバム「JULIE II」もリリースするなど、「PYG」と並行して、ソロとしても本格的に活動を開始したのでした。

(1972年、萩原健一さん主演の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」が高視聴率を記録して、萩原さんの俳優としての評価が高まると、萩原さんが多忙で参加できないときには、「PYG」「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになっていきます)

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「許されない愛」「危険なふたり」が大ヒット

そんな沢田さんは、1972年3月11日、ソロとして、セカンドシングル「許されない愛」をリリースすると、オリコンチャート最高4位となる大ヒットを記録。


「許されない愛」より。

以降、

1972年6月「あなただけでいい」(3枚目)
1972年9月「死んでもいい」(4枚目)
1973年1月「あなたへの愛」(5枚目)

と、立て続けにシングルをリリースすると、1973年4月21日にリリースした6枚目のシングル「危険なふたり」は、65万枚を売り上げるヒットとなるほか、オリコンチャートもソロになって初の1位を記録し、「第4回日本歌謡大賞」を受賞。

これにより、沢田さんは、ソロでも人気を不動のものにされたのでした。


「危険なふたり」

(ちなみに、この沢田さんのソロでの人気によって、「PYG」の存在感は希薄になっていき、(沢田さんと萩原健一さん以外の)他のメンバーは、沢田さんのバックバンド(または「井上堯之バンド」)として活動していくことになっていきます)

「沢田研二のデビューからのディスコグラフィーを画像で!」に続く

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