大学卒業後の1989年4月、ディレクターを目指し、ラジオ局「ニッポン放送」に入社すると、社内で最も嫌われていた編成局に配属され、当初は不満を抱くも、驚くべき発想力でたちまち才能を発揮し、企画した番組「尾行マン」「沈黙の艦隊」などが大ヒットした、堀義貴(ほり よしたか)さん。
今回は、そんな堀義貴さんの若い頃(ニッポン放送時代)をご紹介します。

「堀義貴の生い立ちは?萩本欽一の弟子希望も父・堀威夫に反対されていた!」からの続き
堀義貴は22歳の時にニッポン放送に入社
堀義貴さんは、大学卒業後は、子供の頃から間近で見ていた芸能マネジメントの道に進みたいと思っていたそうですが、あえて、父・堀威夫さんが創業した「ホリプロ」ではなく、他のプロダクションに行こうと思っていたそうです。
そんな中、あるプロダクションの社長から「うちにおいで」と誘いを受けたそうですが・・・
お父さんに反対され、断念したそうで、他のプロダクションに行けないならもうどこでもいいと開き直り、テレビ局を受験することも考えたそうですが、
アシスタントディレクター(AD)として下積みを何年も続けるのは自分の性に合わないと感じたそうで、
ラジオならすぐにディレクターとして現場を任せてもらえるはずだと思い、ニッポン放送を受験すると、1989年4月、22歳の時に、(堀義貴さんいわく)お父さんのコネで入社することができたのだそうです。
(とはいえ、当時の総務部長によると、堀義貴さんの筆記試験の成績は良かったそうです)
堀義貴は22歳の時に「ニッポン放送」の編成局(最も嫌われているセクション)に配属されていた
すると、ニッポン放送では編成局に配属されたそうですが・・・
編成局は、社内で一番嫌われているセクションだったといいます。
というのも、編成局は想像を絶する忙しさで、番組の企画、フォーマット作り、営業調査、イベントの運営、書籍の出版、さらには、フジサンケイグループ全体の大型プロジェクトや映画担当まで様々な仕事があり、
一人で同時に6種類もの異なる仕事を抱えるのが当たり前の環境で、単なる番組表作りにとどまらない「超多機能」な部署だったそうで、
(社内で「誰が担当するのか決まっていない仕事」は、すべて編成部に回ってきたそうです)
堀義貴さんは、
ディレクターやりたかったのに、なんでそんな事務作業みたいなことやらなきゃいけないの
と、思ったそうです。
堀義貴が22~23歳の頃には「ニッポン放送」のラジオ番組にレギュラー出演もしていた
それでも、堀義貴さんは、編成局では、文字通り何でもこなしていったそうで、
番組に出る人間がいないから、とりあえずお前が出ろ
という無茶振りを受け、なんと約1年半もの間、ラジオ番組にレギュラー出演したこともあったといいます。
ちなみに、堀義貴さんが最初に出演したのは、占い師の役だったそうで、
堀義貴さんは、
最初に出たのは占い師です(笑)。アメリカの色占いの本があって、先輩が「面白いからこの本の日本語訳を出版しよう」ってことになって。だったら番組で盛り上げなきゃいけないから、占い師が必要だよな、って話になったんです。
最初はその先輩がやってたんだけど、その人が海外研修に一年間行っちゃうから「お前代わりにやっといてな」と。だから最初に番組に出たのは、「レインボーホリ」っていう占い師でした(笑)。
と、語っています。
堀義貴は20代前半の頃「ニッポン放送」で実況中継番組「尾行マン」を企画していた
そんな堀義貴さんは、その後、「レインボーホリ」として「オールナイトフジ」などにも2回ほど出演し、人生相談などを、半年程やっていたそうですが、
それが終了した後、しばらく間があき、夜帯の番組を全リニューアルする時、ニッポン放送の若手有志が集められ、
お前らのやりたい番組を実際に作って持ってこい
と、命じられたそうで、
先輩と2人で、街中で見かけた女性を自宅に帰り着くまでひたすら追いかけ、スポーツアナウンサーがその様子を緊迫感たっぷりに実況し、堀義貴さんが”尾行評論家”として解説を加えるという、今では考えられない構成の実況中継番組「尾行マン」という企画を立案し、
(テレビではカメラが目立って不可能な尾行も、録音機材を服に隠せるラジオだからこそ成立する企画だったそうです)
このデモテープを提出したところ、当時の編成局長が、
これは面白い、コレで行こう
と、即決してくれたといいます。
堀義貴が企画した「尾行マン」とは?
こうして、「尾行マン」は、人気番組「伊集院光のOh!デカナイト」内の5分間のベルトコーナーとしてレギュラー化されると、大きな話題となったそうで、
当時、NHKのニュース番組「ミッドナイトジャーナル」を担当していた山根一眞さんも、
NHKが終わって車乗ってしばらくすると尾行マンが始まるんだよ。すごい面白いんだけど、途中でニッポン放送が聞き難い地域を通るから、結末がどうなったかいつも分からないんだ
と、堀義貴さんに直接伝えるほどの熱心なリスナーだったといいます。
ちなみに、堀義貴さんによると、実況中継中、
(女性が)ヤバイ所に入ったことはないですけど、不思議な行動をする子はいましたね。例えば女の子二人が九段下から東西線に乗って中野の方に向かっていって、片方は編み物していてもう片方の子は途中下車したんです。
「友達が降りました。どちらを追いましょうか。とりあえず編み物してる方を追っかけましょう。」「じゃあ仮にこの名前をK子としましょう」みたいな感じで中継していると、K子が突然、泣き出すんですよ。電車の中でひとりでね。
これは実況冥利に尽きますね(笑)。「どうやら泣いています。これはどういう事でしょう。大ハプニングです。「ひょっとすると編み物を送る相手が実はいないんでしょうか。」「別れてしまってるんでしょうか」「友達には彼氏に編んでるって言ってるんだけど実はあげられないんじゃないか。」とか…。
あとは直線距離なら5分で帰れる所を、電車を乗り継いでぐるーっと回って2時間かけて帰る子とかね。
などの出来事があったそうですが、
尾行は常に後ろ姿からスタートするため、顔を確認する瞬間が最大のハイライトで、実況の途中で堀義貴さんが先回りし、顔を確認して、「絶句」するか「歓喜」するかをレポートし、
黒髪の少女に美人が多いというのは俗説のようですね
といった毒舌混じりの解説を入れたそうで、
やっている堀義貴さん本人も楽しんでいたといいます。
(ただ、ターゲットの真横を通っても決してバレないプロ(?)の技術を駆使しても、相手が遠方の切符を買った際には、精算で手間取って、見失ってしまうことも多く、最後まで追いかけられなかったことも多々あったそうです)
堀義貴が企画した「尾行マン」は大ヒット中に惜しまれつつ終了していた
そんな「尾行マン」は、3時間の生放送スペシャルが組まれるなど、大ヒットしたそうですが、意外な理由で幕を閉じていたといいます。
実は、「尾行マン」は、下校時間に合わせて、夕方からロケを開始していたそうですが、ターゲットがどこまで行くか、いつ帰宅するかが全く読めないため、終わる時間が予測不能で、通常業務に支障をきたしていたそうで、最終的には、惜しまれつつ終了となったのだそうです。
堀義貴は20代前半の頃「ニッポン放送」で長編ラジオドラマ「沈黙の艦隊」も大ヒットさせていた
その後、堀義貴さんは、漫画「沈黙の艦隊」をドラマ化した同名の長編ラジオドラマを手掛けたそうですが、
(もともとは、先輩プロデューサーが担当していた、ニッポン放送の何年かぶりとなる長編ドラマの企画だったそうですが、先輩の人事異動によって堀義貴さんのもとへこの企画が転がり込んできたそうです)
漫画の題材自体が、日米安保を否定するデリケートな題材だったことから、社内では制作前に、
やってもいいのか
と、問題になっていたといいます。
ただ、最終的には、
漫画なんだし、いいんじゃないか
ということで、企画が通ったそうですが・・・
今度は、放送直前に湾岸戦争が勃発したそうで、社内では、再び、核潜水艦を扱い、日米安保に一石を投じる内容だった「沈黙の艦隊」は放送中止にするべきという声も上がったのだそうです。
それでも、当初300万円の予定だった予算が、制作が進むにつれて膨れ上がり、最終的には1,000万円に到達していたそうで、
もう作っちゃったから放送するしかない
と、放送が決定したのだそうです。
そんな中、堀義貴さんは、放送前にインタビューを受けていたことから、様々なところから脅迫状や脅迫電話がバンバンきたそうで、その中には、「ぶっ殺す」など、命の危険を感じるほどの脅迫もあったそうですが、
いざ、「沈黙の艦隊」が放送されると、聴取率はダントツ1位の大ヒットを記録したのだそうです。
「堀義貴(堀威夫の息子)の若い頃(ホリプロ入社)から現在は?妻は?子供は?」に続く
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1992年、26歳の時、父・堀威夫さんに熱心に請われ、「ニッポン放送」を退職し、家業である「ホリプロ」に入社すると、10年後、2002年、36歳の時には、「ホリプロ」の代表取締役社長に就任した、堀義貴(ほり よしたか)さ …







