18歳の時、平尾昌章さん、ミッキー・カーチスさんと共に、「ロカビリー三人男」として、またたく間に時代の寵児として注目を集めた、山下敬二郎(やました けいじろう)さん。
今回は、そんな山下敬二郎さんの若い頃(ウイリー沖山さんの付き人時代)から死去までの経歴を、様々なエピソードを交えながら、時系列でご紹介します。また、最後に、ディスコグラフィー(アルバム、シングル)や著書の一覧もご紹介します。

「山下敬二郎の生い立ちは?父親・柳家金語楼の命令でウイリー沖山の付き人になっていた!」からの続き
山下敬二郎は17歳の時に「ブルーレンジャーズ」のボーカルとして初ステージを踏んでいた
中卒後、神楽坂で不良に染まっていた中、父・柳家金語楼さんの命令でウイリー沖山さんの付き人(ウイリー沖山さんのバンド「ブルーレンジャーズ」のバンドボーイ)になったという山下敬二郎さんは、
当初、歌手になるつもりなどなかったそうですが、ウイリー沖山さんから歌の指導を受けるうち、次第にその面白さに目覚めていったそうで、
1956年、17歳の時には、横浜・伊勢佐木町のナイトクラブ「モカンボ」で、「ブルーレンジャーズ」のボーカルとして、ハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」を歌い、ステージデビューを果たしたそうです。
山下敬二郎は18歳の時に「マウンテン・ボーイズ」にバンドボーイ兼シンガーとして参加するも半年後に解散していた
ただ、それから1年後の1957年(山下敬二郎さん18歳)、ウイリー沖山さんがソロシンガーに転向したことで、バンド「ブルーレンジャーズ」が解散すると
山下敬二郎さんは、「マウンテン・ボーイズ」の設立者・大野義夫さんの紹介により「マウンテン・ボーイズ」にバンドボーイ兼シンガーとして参加し、主に米軍キャンプで前座歌手として活動するようになったそうですが、
その半年後には、「マウンテン・ボーイズ」も解散してしまったそうです。
山下敬二郎は18歳の時にビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーを聴いて衝撃を受けていた
その後、山下敬二郎さんは、再び、神楽坂をブラブラするようになったそうですが、
そんな中、米軍キャンプのジュークボックスから、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」やエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」が流れているのを聴き、衝撃を受けたそうで、
この時、山下敬二郎さんは、ロカビリーで生きていく決意をしたといいます。
山下敬二郎は18歳の時に「サンズ・オブ・ドリフターズ」として「ウエスタン・カーニバル」に出演すると、平尾昌章やミッキー・カーチスとともに注目を集めていた
こうして、山下敬二郎さんは、1957年2月、18歳の時、岸部清さん(後に「第一プロダクション」社長)率いる「サンズ・オブ・ドリフターズ」に、リード・ボーカルとして加入しているのですが、
同年5月、有楽町の「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタン・カーニバル」で、エルヴィス・プレスリーの「どっちみち俺のもの」、パット・ブーンの「ドント・フォビット・ミー」、ビル・ヘイリーの「セインツ・ロックンロール」を歌唱すると、
共演した、平尾昌章(後に平尾昌晃)さん、ミッキー・カーチスさんとともに、いきなり、注目を集めたのでした。
山下敬二郎は18歳の時に曲直瀬信子から熱烈なスカウトを受け「マナセプロダクション」に移籍していた
そして、山下敬二郎さんは、同年(1957年)11月にも、「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタンカーニバル」に出演したそうですが、
終演後、このステージを観ていた「マナセプロダクション」の曲直瀬信子さんから、
あなたのステージを観てすっかり感動してしまった。どうしても、うちに来てほしい
と、熱心なスカウトを受けたといいます。
(「マナセプロダクション」に所属する、相澤秀禎さん率いる「ウエスタン・キャラバン」のリードボーカルに迎えたい、というものだったそうです)
ただ、山下敬二郎さんは、バンド・リーダーの岸部清さんに対して恩義を感じており、
岸部清さんに、
おまえなんかもういらないよ、出ていけ!
とでも言われない限り、移籍するつもりはなかったそうですが、
曲直瀬信子さんと相澤秀禎さんの粘り強い説得で、岸部清さんと共に根負けし、最終的には、1957年12月には(山下敬二郎さん18歳)、「マナセプロダクション」に移籍し、「ウエスタン・キャラバン」に加入することが決まったのだそうです。
山下敬二郎は18歳の時に「日劇ウエスタン・カーニバル」で大ブレイクしていた
すると、その後、1958年2月8日には、山下敬二郎さんは、「ウエスタン・キャラバン」で、「第1回 日劇ウエスタン・カーニバル」に出演しているのですが、
「日劇ウエスタン・カーニバル」は、わずか7日間の開催で延べ4万5,000人を動員する大成功を収め、日本のポップス界に「ロカビリー・ブーム」を巻き起こしています。
1957年5月、18歳の時、「サンズ・オブ・ドリフターズ」のボーカルとして、有楽町の「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタン・カーニバル」に出演すると、いきなり注目を集めた、山下敬二郎(やました けいじろう)さんは、 …
山下敬二郎はロカビリー(不良)のアイコンとなるも世間からは白い目で見られていた
そして、翌3月には、新宿コマ劇場、4月には大阪北野劇場でロカビリー公演が行われると、またしても公演は大成功となっているのですが、
(山下敬二郎さんは、そんなロカビリーのアイコンでした)
この時の新宿コマ劇場での熱狂的な様子がテレビのニュース映像で流れると、世間から、大きな顰蹙(ひんしゅく)を買ったといいます。
というのも、会場は、日劇同様、ファンが絶叫し狂喜乱舞する阿鼻叫喚(あびきょうかん)のステージだったそうで、
その異様とも言える熱狂ぶりに、「バカビリー」と揶揄(やゆ)されるほか、音楽誌の専門家からも「地上最低のショウ」と酷評されたのでした。
また、山下敬二郎さんのお父さんの柳家金語楼さんも、
ロカビリーは感化院(非行に走った少年少女や保護者のいない少年少女を保護し教育するための福祉施設)の学芸会みたい
と、冗談交じり評していたのですが、
こうして、ロカビリーは、未成年の非行と結びつけられ、世間から白い目で見られるようになったそうで、その後2年もの間、テレビ界から完全にシャットアウトされたのでした。
山下敬二郎は平尾昌章、ミッキー・カーチスとともに「ロカビリー三人男」と呼ばれ爆発的な人気を博していた
とはいえ、若者たちの間では、ロカビリーはますます勢いを増し、「日劇ウエスタン・カーニバル」は、この年(1958年)だけでも、計4回(2月に第1回、5月に第2回、8月に第3回、12月に第4回)も開催されたそうで、
その熱狂の中心にいた、山下敬二郎さん、「オールスターズ・ワゴン」の平尾昌章(後に平尾昌晃)さん、「クレイジー・ウエスト」のミッキー・カーチスさんの3人は、「ロカビリー三人男」と呼ばれて爆発的な人気を博したのでした。

「ロカビリー三人男」。(左から)平尾昌章さん、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さん。
ちなみに、山下敬二郎さんは、この直後から、過密スケジュールに忙殺されるようになり、ジャズ喫茶での演奏の合間に、ラジオに出演し、移動の車の中で雑誌や新聞のインタビューを受けていたそうで、
神武景気の真っ只中、時代は新しいヒーロー、ヒロインの登場を心待ちにしていた。戦後の混乱が一段落し、ようやく若者たちが自分の好きなことをやれる時代になった。
けれど、周りには夢中になれるものがない、若者たちは自分たちの行き場のないフラストレーションのはけ口となってくれるような対象を渇望していた。それがロカビリーだったのだろう。
と、語っています。
山下敬二郎は19歳の時にリリースした「バルコニーに座って/ダイアナ」が大ヒット
そんな山下敬二郎さんの勢いは止まらず、同年(1958年)4月、19歳の時、シングル「バルコニーに座って/ダイアナ」をリリースすると、このレコードはA面、B面ともに大ヒット。
中でも、「ダイアナ」は、山下敬二郎さんの代名詞となるだけでなく、「日本のロカビリーといえばこの曲」と言われるほどのスタンダード・ナンバーとなったのでした。

「バルコニーに座って/ダイアナ」
そして、このヒットを受け、山下敬二郎さんは、音楽雑誌「ミュージックライフ」8月号の読者人気投票(ウエスタン=ロカビリー歌手部門)で、それまで不動のトップだった小坂一也さんや、最大のライバルである平尾昌章さんを抑えて、見事1位を獲得し、名実ともにロカビリー界の頂点へと登り詰めたのでした。
山下敬二郎は人気絶頂の中、思いのまま行動していた
こうして、人気絶頂期を迎えていた山下敬二郎さんは、1958年8月には、何から何まで管理されていたという「マナセプロダクション」を嫌い、「渡辺プロダクション」に移籍しているのですが、
1962年、23歳の時には、当時、日本に16台しかなかった名車「サンダーバード1956年式」を、事務所に前借りするつもりで、勝手に購入し、社長の渡辺晋さんに咎(とが)められると、
移籍を条件に車の代金を肩代わりすると持ちかけてきた、「銀座ACB」のオーナーで「東洋企画」の谷富次郎社長の話に乗り、「東洋企画」に移籍しています。
山下敬二郎は23歳頃にロカビリーブームが去り人気が急下降していた
しかし、そんな山下敬二郎さんも、ロカビリーブームが下火になると、人気が急下降し、事務所を移籍してまで手に入れた「サンダーバード1956年式」も手放さざるを得なくなったほか、
移籍先の「東洋企画」では、マネージャーとの不仲が原因で、自身の基盤であるバンドメンバーとも疎遠になってしまうと、
さらには、「東宝」の俳優である藤木悠さんの奥さんとのW不倫(当時、山下敬二郎さんは2人目の奥さんと婚姻中でした)で、週刊誌を賑わせ、「東洋企画」も去っています。
山下敬二郎が23歳~30歳の時は生活に困窮していた
そんな山下敬二郎さんは、その後、再起を賭け、父・柳家金語楼さんの「金星企画」に身を寄せるほか、自ら「山下敬二郎音楽事務所」を立ち上げ、平尾昌晃さんやミッキー・カーチスさんらと共に博多で興行を行ったそうですが、
かつての勢いを取り戻すには至らず、副業として、二子新地に喫茶店「ロック」をオープンさせるも、あえなく失敗。
さらに、1960年代後半になると、仕事は激減したそうで、完全にフリーとなると、たまに舞い込むステージは地方のキャバレーばかりで、
やがて、その依頼すらも途絶えると、生活は困窮し、体調を崩しながらも雀荘を経営して食いつなぐ毎日を送るようになったといいます。
山下敬二郎は31歳の時にシングル「愛しているなら」でどん底から表舞台への復帰を果たしていた
ただ、1970年、31歳の時には、盟友・平尾昌晃さんのリサイタルにゲスト出演すると、
これをきっかけに、川内康範さんプロデュースで、8年ぶりのシングル「愛しているなら」をリリースし、表舞台への復帰を果たしています。

「愛しているなら」
山下敬二郎は33歳の時、平尾昌晃、ミッキー・カーチスとともに制作したアルバム「蘇るロカビリー三人男」がヒット
そんな山下敬二郎さんは、その後、「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の企画アルバムへ参加するほか、メディアへの露出も徐々に増加し、
1972年、33歳の時には、かつて、共に黄金時代を築いた、ミッキー・カーチスさんのプロデュース(編曲は大野克夫さん)で、2枚組のアルバム「蘇るロカビリー三人男」をリリースすると、大きな反響を呼んでヒット。
また、このヒットに合わせ、平尾昌晃さんとミッキー・カーチスさんと共にジョイントコンサートも開催すると、往年のファンが会場を埋め尽くし、以降、このコンサートは30年以上にわたって続く恒例行事となったのでした。

「蘇るロカビリー三人男」
山下敬二郎のディスコグラフィー(シングル)
それでは、最後に、山下敬二郎さんのディスコグラフィーをご紹介しましょう。
シングルでは、
- 1958年「バルコニーに坐って/ダイアナ」
- 1958年「クレイジー・ラヴ/愛しておくれ」
- 1958年「テレビ塔音頭(朝丘雪路と)/テレビ塔の見える道(大江洋一)」
- 1958年「敬ちゃんのジングルベル/ブルー・クリスマス」
- 1959年「国境の南/打明けるのが遅かったかい」
- 1959年「青春ハイ・スピード/片想い(中島潤)」
- 1959年「北風を衝く男/俺は夢見る旅鳥」
- 1960年「恋の片道切符/褐色のブルース(渡辺晋とシックスジョーズ)」

「恋の片道切符/褐色のブルース(渡辺晋とシックスジョーズ)」 - 1960年「それが男というものさ/うき藻小唄(朝丘雪路)」
- 1960年「バッファローマーチ/死ぬほど愛して(朝丘雪路)」
- 1960年「恋の手ほどき/こわれた恋(旗輝夫)」
- 1961年「花子さん/ほんとにほんとにご苦労ね」
- 1961年「純情愚連隊/母を慕うブルース」
- 1961年「恋はやさしい野辺の花/ディアボロの歌」
- 1961年「白い夜霧のブルース/今日の涙は明日の虹さ」

「白い夜霧のブルース/今日の涙は明日の虹さ」 - 1962年「ブロンコ/マーベリック」
- 1962年「ヤング・ワールド/クライ・クライ・クライ」
- 1962年「可愛いティーズ/スチールギターとワイングラス」
- 1962年「涙の紅バラ/二人のメロディー」

「涙の紅バラ/二人のメロディー」 - 1962年「家へかえろう/可愛いダイアン」
- 1970年「愛しているなら/遠くで愛して」
- 1971年「ダイアナ(平尾昌晃と)/砂に書いたラブレター(平尾昌晃)」
- 1972年「青春無情/明日は帰るよ」
- 1977年「ダイアナ/バルコニーに坐って」
- 1977年「バイ・バイ・ブルース/僕のベッドへおいで」
- 1977年「エルビスは永遠/ロッカ・バイ・エルビス(平尾昌晃と)」

「エルビスは永遠/ロッカ・バイ・エルビス(平尾昌晃と)」 - 1977年「上陸!ロックン・ロール・タイフーン/聖者の行進」
- 1980年「男と汽車と古い地図/なごり」
- 1983年「あいつと俺/酒飲み男の子守唄」

「あいつと俺/酒飲み男の子守唄」
山下敬二郎のディスコグラフィー(アルバム)
アルバムでは、
- 1960年「敬ちゃんのロック」
- 1961年「東芝ポップテン」
- 1961年「しゃれ男」
- 1962年「涙の紅バラ」
- 1963年「ROCKIN’ TOKYO」
- 1972年「蘇るロカビリー三人男」
- 1977年「ロックンロール野郎」

「ロックンロール野郎」
を、リリースしています。
山下敬二郎の著書
また、山下敬二郎さんは、
- 「ダイアナ、俺の歌を聞いてくれーロカビリー・ナイト・イン・ジャパン」 (1988年、現代書林)
- 「リセット。」 (2002年、人間と歴史社)
など、著書も出版しています。
「【画像】山下敬二郎の若い頃(ロカビリーでブレイク)が色んな意味で凄い!」に続く
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1957年5月、18歳の時、「サンズ・オブ・ドリフターズ」のボーカルとして、有楽町の「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタン・カーニバル」に出演すると、いきなり注目を集めた、山下敬二郎(やました けいじろう)さんは、 …
















