1957年5月、18歳の時、「サンズ・オブ・ドリフターズ」のボーカルとして、有楽町の「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタン・カーニバル」に出演すると、いきなり注目を集めた、山下敬二郎(やました けいじろう)さんは、

その後、1958年2月8日から1週間開催された「第1回 日劇ウエスタン・カーニバル」に、「ウエスタン・キャラバン」のボーカルとして出演すると、観客を熱狂の渦に巻き込み、日本のポップス界に「ロカビリー・ブーム」を巻き起こしているのですが、

今回は、そんな山下敬二郎さんの、若い頃(ロカビリー界でのブレイク時代)の色んな意味で凄すぎるエピソードをご紹介します。

山下敬二郎

「【画像】山下敬二郎の若い頃から死去までの経歴は?ディスコグラフィや著書も!」からの続き

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山下敬二郎が18歳の時、渡邊美佐の妹・曲直瀬信子にスカウトされた理由が凄い

1957年2月、18歳の時、岸部清さん(後に「第一プロダクション」社長)率いる「サンズ・オブ・ドリフターズ」に、リード・ボーカルとして加入し、

同年5月、有楽町の「ヴィデオホール」で開催された「ウエスタン・カーニバル」に出演すると、いきなり、注目を集めた山下敬二郎さんは、

このステージを観ていた「マナセプロダクション」の曲直瀬信子さんにスカウトされ、「ウエスタン・キャラバン」に移籍しているのですが、

実は、曲直瀬信子さんは、山下敬二郎さんのステージを観て、誰よりも大きな衝撃を受けていたそうで、

興奮冷めやらぬまま、実姉であり「渡辺プロダクション」の副社長を務めていた渡邊美佐さんのもとへ駆け込むと、

すばらしいのを発見した!足がすごいのよ!

と、興奮しながらまくしたて、

渡邊美佐さんが、

歌はうまいの?

と、尋ねると、

歌なんかどうでもいいのよ!あれは”若いライオンよ!”とにかく一緒に観に行きましょう

と、熱心に誘っていたといいます。

(ロカビリーに精通し、ロカビリーのブレーンとして鋭い審美眼を持っていた曲直瀬信子さんでしたが、この時ばかりはいつになく様子が違っていたそうです)

そこで、その熱意に押される形で、渡邊美佐さんも、11月の「ヴィデオホール」に足を運ぶと、

山下敬二郎さんは、本家・エルヴィス・プレスリーを彷彿とさせる抜群のスタイルで、ギターを抱え、両脚を大きく開いたまま、腰を激しく震わせ、歌うというよりは、絶叫に近い熱唱で暴れており、

その一挙手一投足に、会場を埋め尽くした少女たちは悲鳴にも似た歓声をあげ、会場はこれまでにない興奮に包まれていたそうで、

曲直瀬信子さんが、

これがロカビリーなのよ!

と、うわずった声で言うと、

渡邊美佐さんも、その光景を目の当たりにし、”若い世代のエネルギーと生命の讃歌”を直感したのだそうです。

(渡邊美佐さんは、ロカビリーについて、ほとんど知らなかったそうです)

ちなみに、山下敬二郎さんは、日本で巻き起こったロカビリーブームについて、著書「リセット。」に、

あれはエルヴィスが生んだものではなく、間違いなくオレたちが生んだ純然たる「和風ロカビリー旋風」だった。

戦争に敗れ、一面焼け野原となった日本に、ようやく復興の兆しが見えてきたそんな時代に、そのパワーの一躍を担った若者たちが、自分の欲求のはけ口として喰らいついてきたもの、それがオレたちの「ロカビリー」だった

と、綴っています。

山下敬二郎は18歳の時に親衛隊の少女たちを20人引き連れて楽屋入りしていた

こうして、山下敬二郎さんが、「マナセプロダクション」に移籍し、「ウエスタン・キャラバン」に加入すると、「ウエスタン・キャラバン」は、一躍、引く手あまたの人気バンドとなり、

1958年2月8日から1週間、開催される「第1回 日劇ウエスタン・カーニバル」に出演することが決定したそうで、

前日の2月7日夜、仕事終了後、日劇の楽屋に集まるように言われていた山下敬二郎さんは、バンドメンバーだけではなく、20人あまりの少女たち(親衛隊)を連れ立って楽屋入りしたそうですが、

「第1回 日劇ウエスタン・カーニバル」をプロデュースしていた渡邊美佐さんが、

絶対にいけません

と、少女たちに怖い顔を向けたそうで、

少女たちがシュンとし、今にも泣き出しそうな顔になると、

山下敬二郎さんは、

この子たちはオレの仲間だ。2~3人でもいいから楽屋に入れてくれ

と、申し出たそうで、

渡邊美佐さんは、「3人まで」という条件きで、親衛隊の楽屋入りを許したといいます。

(渡邊美佐さんは、彼女たちがただのファンではなく、山下敬二郎さんを盛り上げようと一心同体に動き、支える仲間であると理解し、無下にできないと思ったのでした)

「山下敬二郎

山下敬二郎は18歳の時、「日劇ウエスタン・カーニバル」の本番直前では2000人超の観客に萎縮していた

そして、一夜明けると、早朝から日劇を取り囲む群衆のボルテージは上がり続けたそうで、危険を感じた渡邊美佐さんは、開場予定を2時間も切り上げる決断を下したそうですが、

ドアを開いた瞬間、席は、ドッと押し寄せた観客で一気に埋め尽くされたそうで、開演前にもかかわらず、場内は各親衛隊による激しい応援合戦が繰り広げられる、異様な熱気に包まれたといいます。

ただ、いよいよ本番直前、山下敬二郎さんら出演者たちが、日劇のシンボルである「幅30メートル、高さ12メートルの大階段」の最上段に立つと、2,000人を超える観客が静まり返ったことから、

大観衆の放つ圧倒的なエネルギーを前に、出演者はみな完全に萎縮してしまい、顔面蒼白で足はガクガクと震え、音程すら取れなくなるほどの極限状態になったといいます。

しかし、そんな中、静まり返った客席から、

ケイちゃん、がんばってぇー!

と、一人の少女の叫びが響き渡ると、

(それは、渡邊美佐さんが楽屋入りを許可していた山下敬二郎さんの親衛隊の一人によるものだったそうです)

この心からの声援をきっかけに、各親衛隊が一斉に歓声を上げ始めたそうで、その熱いエールに、出演者たちは一気に息を吹き返したのだそうです。

山下敬二郎が18歳の時に出演した「日劇ウエスタン・カーニバル」での観客の熱狂ぶりが凄い

こうして、ライブが始まると、会場はまさに”狂乱の宴”と化したそうで、少女たちの凄まじい黄色い声援に、当時の脆弱な音響装置から出る音はかき消され、山下敬二郎さんたちは、自分たちの歌声すら聞こえない状況だったそうですが、

山下敬二郎さんが「歌声だけでは届かない」と直感し、いつも以上に激しく全身を躍動させると、それに応えるようにさらに大きな歓声が巻き起こったそうで、

ステージには無数の紙テープが投げ込まれ、ギターに絡みついてぐるぐる巻きになったほか、トイレットペーパーや女性の下着までもが舞台へ飛んできたといいます。

また、山下敬二郎さんは、熱狂した観客によってステージから引きずり降ろされると、ここぞとばかりに少女たちが群がり、キスをされたり、抱きつかれたりと、もみくちゃにされたそうで、

ようやくステージに戻った頃には、衣装もギターもボロボロで、最後には息も絶え絶えになり、舞台にしゃがみ込みながら歌うのが精一杯という状況だったといいます。

(この前代未聞の熱狂は、わずか7日間の開催で延べ動員数4万5,000人に達したそうで、日本のポップス界に「ロカビリー・ブーム」を巻き起こしたのでした)

山下敬二郎が19歳の時、「マナセプロダクション」から「渡辺プロダクション」に移籍した理由が凄い

そんな中、山下敬二郎さんは、1958年8月、わずか半年で、「マナセプロダクション」から、渡邊美佐さんが副社長を務める「渡辺プロダクション」に移籍しています。

というのも、「マナセプロダクション」では、何から何まで管理されたそうで、極端に束縛を嫌う山下敬二郎さんには、窮屈過ぎたそうで、

「渡辺プロダクション」が開放的に見えた山下敬二郎さんは、事あるごとに事務所(「マナセプロダクション」)の不平不満を漏らしていたのだそうです。

(「マナセプロダクション」が「渡辺プロダクション」に、「面倒をみてほしい」と依頼したという話もあるようです)

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山下敬二郎が23歳の時、「渡辺プロダクション」から「東洋企画」に移籍した理由が凄い

ただ、この頃、飛ぶ鳥を落とす勢いだった山下敬二郎さんは、欲しいものがあると、手に入るまできかず、ステージの開演間際に、

あれを買ってこないとステージには出ない

と、言い張り、

当時、マネージャーだった井澤建さん(後に「イザワオフィス」設立)を困らせていたそうで、

1962年、23歳の時には、当時、日本に16台しかなかった名車「サンダーバード1956年式」(当時の価格で180万円)と出会うと、購入資金のあてもないまま契約を済ませ、実車を手に入れると、

(しかも、山下敬二郎さんが購入したサンダーバードは、日本にたった1台しかなかったというピンクのサンダーバードだったそうです)

その車で、居候していた「渡辺プロダクション」の社長・渡辺晋さんの自宅へと乗り付けたそうで、

渡辺晋さんが、驚いて、

敬ちゃん、どうしたんだ、その車は?

と、尋ねると、

山下敬二郎さんは、

買ったんです。あまりに格好良かったから

と、答え、

渡辺晋さんが、お金はどうしたのかと心配すると、

山下敬二郎さんは、悪びれる様子もなく

それはまた、事務所から借りようと思って

と、答え、

しかも、米兵から違法で入手したことを明かすと、

(当時の山下敬二郎さんの月給は15万円だったそうですが、以前にも、野球に凝り始めた際、渡辺晋さんに前借りして、巨人軍より早くバッティングマシーンを購入するなど、この時、すでに500万円も前借りしている状態だったそうです)

渡辺晋さんは、

絶対にいかん

と、即座に貸し付けを拒否。

すると、山下敬二郎さんは、

じゃあ、いいよ

と、ふてくされた態度で、渡辺晋さんの自宅を後にしたのだそうです。

こうして、あてにしていた渡辺晋さんに頼れなくなった山下敬二郎さんですが、そこに、「銀座ACB」のオーナーで、「東洋企画」の谷富次郎社長が、「東洋企画」への移籍を条件に「サンダーバード1956年式」のお金を肩代わりすると、持ちかけてきたそうで、

山下敬二郎さんは、「渡辺プロダクション」への義理か、目の前の名車か、迷った末、この車を手放したくない思いが勝り、「東洋企画」への移籍を決意したのでした。

ちなみに、この報告を受けた渡辺晋さんは、

敬ちゃん、世間ってものは、そんなに甘くないよ。まっ、せいぜい心して渡っていくことだな

と、諭すように言ったといいます。

「可愛いティーズ」
「可愛いティーズ」。このジャケットに写っている車が「サンダーバード1956年式」で、「涙の紅バラ」や「ダイアナ」の再発盤にも登場しています。

「山下敬二郎の死因は?最後(5人目)の妻は山下直子!4人の前妻は?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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