歌舞伎役者から映画俳優へ転身され、1956年、映画「若さま侍捕物帖」で、一躍人気スターとなられた、二代目大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう)さん。翌年1966年にスタートしたテレビドラマ「銭形平次」では、主人公の銭形平次役を、1984年まで18年間演じられ、ギネス記録となっています。

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歌舞伎役者、二代目大川橋蔵

大川さんは、1929年4月9日生まれ、
東京都のご出身で、

生後、まもなくして、歌舞伎役者、
二代目市川瀧之丞さんの養子となられると、

その後、市川さんの知り合いだった、
四代目市川男女蔵さんの部屋子となられます。

(部屋子は、幹部俳優の楽屋にあずけられ、行儀作法から、
 舞台での芸まで、役者として必要なことを仕込まれます。)

そして、1935年、市川男女丸を名乗り、
歌舞伎座で初舞台を踏まれると、

これを観ていた六代目尾上菊五郎さんに、
その才能を見出され、
目をかけてもらうようになったそうで、

1944年には、尾上さんの養子になられ、
同時に、二代目大川橋蔵の名を襲名されたのでした。


1936年5月歌舞伎座公演「すし屋」より。
(左から)大川さん(当時、市川男女丸)、
六代目尾上菊五郎さん、三代目中村時蔵さん。

歌舞伎界に不安を抱く

しかし、1949年に、
六代目尾上菊五郎さんが他界。


六代目尾上菊五郎さん

その後、残された人たちが結束し、
「菊五郎劇団」を立ち上げられたことで、

大川さんも、「菊五郎劇団」に所属し、
主に娘役として頭角を表しはじめるのですが、

六代目尾上菊五郎さんという、
絶対的な後ろ盾をなくしたことや、

戦後という新しい時代の中で、
歌舞伎界の前途などに対し、
将来に大きな不安を抱きはじめるのでした。

そんな折、先に映画界入りしていた、
同じく、元歌舞伎役者の八代目市川雷蔵さんから、
映画界入りを強く勧められることに。

大川さんは、この時点では、まだ、
映画界入りを決意されていないのですが、
映画の世界に、かなり心が傾いていたようです。

映画俳優へ転身

そして、ついに、1955年、
大川さんは、映画プロデューサーの、
マキノ光雄さんにスカウトされ、東映に入社されると、
同年、「笛吹若武者」で映画デビュー。


「笛吹若武者」より。大川さんと美空ひばりさん。

翌年の1956年には、
「若さま侍捕物帖」で主演に抜擢されると、

たちまち人気を博し、
映画スターの仲間入りを果たされたのでした。


「若さま侍捕物帖」より。大川さんと千原しのぶさん。

また、1959年、
「新吾十番勝負シリーズ」では、

端正な顔立ちで、中性的な美形剣士を好演。
その人気を不動のものにされています。

「銭形平次」

1960年代になると、東映が、
ヤクザ映画へと路線を転換していったことから、

大川さんは、舞台やテレビドラマへと、
活動の場をシフト。

1966年に、テレビドドラマ「銭形平次」で、
主人公の銭形平次役に抜擢されると、


「銭形平次」より。

以後、大川さんは、
18年もの間、銭形平次役を演じられ、

1984年4月の最終回までに、
放送回数全888話という
ドラマ史上最長の金字塔を打ち立てられたのでした。

(ちなみに、ギネスブックにも、
 「テレビの1時間番組世界最長出演」
 に認定されています。)

死去

しかし、大川さんは、
1983年9月頃から、体調を崩され、

「銭形平次」の終盤は、
入退院を繰り返しながらの収録だったそうです。

そして、番組が終わった後の1984年11月、
再び入院されると、「結腸がん」が、
肝臓に転移していることが判明。

大川さんご本人には、
病名は伏せられていたのですが、
病気を察しられたのか、

「おれは自分の病気を知ってるんだ」

と言われると、医者に向かって、

大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気をつかい、
いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、
なぜこんな病気になったんですか。

と、訴えられたそうです。

そして、同年12月4日、
大川さんは突然、

「おれの命はあと3日だ」

と言われ、その言葉通り、
3日後の12月7日に他界されたのでした。

妻は?

ところで、大川さんは、1966年に、
祇園の芸姑だった沢村真理子さんと、
結婚されているのですが、


結婚直前の沢村真理子さん。

奥さんは、大川さんの葬儀の席で、

主人はたった1つの宝はお前だといってくれました。

主人の楽しみは女房をきれいにして連れて歩くことだ、
と常にいってくれました。
ほんとうに幸せでした。日本一の主人でした。

と、挨拶されていますので、

大川さんは、とても、
奥さん思いの方だったようですね。

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息子は?

ちなみに、お二人の間には、
息子さんが二人いらっしゃるのですが、

長男は、フジテレビのプロデューサー、
丹羽朋廣(にわ ともひろ)さんで、

朋廣さんは、かつて、「大川辰五郎」名義で、
子役として、活動されていたこともあったとか。

そして、次男は、
俳優の丹羽貞仁(にわ さだひと)さん。


丹羽貞仁さん

貞仁さんは、お兄さんのように、
芸能界に思い入れはなく、普通に大学へ行き、
普通に就職するつもりだったそうですが、

お父さんである大川さんの旧知に、
目をかけてもらい、あれよあれよと、
俳優の道へと導かれたそうで、

貞仁さんはそのことについて、

この世界に入ろうとは考えていませんでしたが、
父の見えないご縁をいただいたのがきっかけで、
役者の道を歩ませていただいていると思っています。
本当にありがたいことだと感謝しています。

と、語っておられました。

さて、いかがでしたでしょうか?

頑固で理論派であったにもかかわらず、
人々が自分に何を求め、喜んでくれるのかを知って、
それに応えようとされていたようで、
美形剣士として娯楽映画に徹した大川さん。

「銭形平次」の第1作から、
大川さんと撮影をともにした佐々木康監督は、

最後まで平均5日に1本という重労働の上に、
年3回、東京と大坂で舞台公演をつづけてきたから、
ほとんど休みがない。

それで、よく撮影の間には、
セットの片隅で椅子に腰かけ、
顔に布をかぶって眠っていました。

しかし出番がくるとパッと起きて、
長いセリフの芝居をやっていました。

と、語っておられるのですが、

その徹底したプロ意識が、大川さんを、
真の映画スターに押し上げたのでしょうね。

その姿は、現在も、
映像の中で輝き続けています。

この機会に、大川さんの作品を、
観てみられてはいかがでしょうか。

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