「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」など、数々の名作を発表されてきた、天才アニメーター、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、今回は、そんな宮崎さんに大きな影響を与えたという、幼少期の体験をご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
宮﨑さんは、1941年1月5日生まれ、
東京府東京市(現在の東京都墨田区)のご出身、
身長164センチ、
血液型はO型、
学歴は、
杉並区立永福小学校
⇒杉並区立大宮中学校
⇒東京都立豊多摩高校
学習院大学政経学部卒業
ちなみに、「宮崎駿(みやざき はやお)」は本名ですが、「秋津三朗(あきつ さぶろう)」、「照樹務(てるき つとむ(てれこむ))」名義でも活動されていたことがあったそうです。
また、趣味は軍事関係で、第二次世界大戦前の甲冑・鎧兜・兵器(装甲戦闘車両、軍用機など)などに詳しいそうです。
父親は母親と再婚だった
宮崎さんのお父さんは、宮崎さんのお母さんと結婚する前、別の女性と、大恋愛の末、学生結婚されていたそうです。
ただ、結婚して一年も経たないうちに、その女性が結核で亡くなったそうで、お父さんは、自分も結核を患っていたため、自分の結核が伝染したんだと落ち込まれたそうです。
また、周囲も、そんなお父さんを、「あんなに大恋愛の末の結婚だったから、大丈夫だろうか」と、とても心配したそうですが、その後、お父さんは、宮崎さんのお母さんと再婚。
ただ、お母さんもまた、病弱だったそうで、宮崎さんが幼い頃は、結核を患われていたそうです。
幼少期の体験がその後の人生に大きく影響
さて、宮崎さんは、叔父さんが経営する「宮崎航空興学」の工場長だったお父さんのもと、4人兄弟の次男として、東京市で誕生すると、叔父さんの経営する会社は、太平洋戦争中、ゼロ戦を製造していた三菱重工の下請けとして、軍用機の部品を組み立てていたことから、宮崎さんは、戦争中にもかかわらず、裕福な家庭で何不自由なく育ちます。
そんな中、戦争の色が濃くなり、幼い宮崎さんは、家族とともに宇都宮に疎開されていたそうですが(小学校3年生まで宇都宮で過ごし、小学校4年生の進級時に東京に戻られたそうです)、
宮崎さんが4歳のある日のこと、宇都宮も空襲を受けたそうで、宮崎さん一家は、親類の運転する(当時、まだ珍しかった)ガソリンのトラックで避難することに。
すると、トラックで避難している時、子どもを抱えた男性が、「助けてください」と駆け寄ってきたそうですが、トラックはすでに宮崎さんの家族でいっぱいだったため、他人を乗せるスペースはなく、そのまま走り去ったそうで、
この出来事は、幼い宮崎さんに強烈な記憶として残り、以降、「乗せてあげて」と叫べなかった自分に対する負い目となって、後の人生に大きな影響を与え続けたそうで、
宮崎さんは、
自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けてる親の元でぬくぬくと育った。しかも、人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃった。乗せてくれって言う人も見捨ててしまった。っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。
それは周りで言ってる正しく生きるとか、人に思いやりを持つとかいうことから比べると、耐え難いことな訳ですね。それに自分の親は善い人であり世界で一番優れた人間だ、っていうふうに小さい子どもは思いたいですから、この記憶はずーっと自分の中で押し殺していたんです。
それで忘れていまして、そして思春期になった時に、どうしてもこの記憶ともう一回対面せざるを得なくなったわけです。
と、語っておられます。
「宮崎駿の少年時代は手塚治虫の新寶島のファンだった!」に続く
赤ちゃんの頃の宮崎さんとお母さん。