「東芝日曜劇場」をはじめ、「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「渡る世間は鬼ばかり」など、数多くのホームドラマを手がけられている、プロデューサーの、石井ふく子(いしい ふくこ)さんですが、幼い頃は、売れっ子芸者だったお母さんの影響で、踊りを踊ることが大好きな子供だったそうです。
年齢は?出身は?本名は?
石井さんは、1926年9月1日生まれ、
東京府東京市下谷区区数寄屋町(現・台東区上野2丁目あたり)のご出身、
血液型はA型、
学歴は、
(お茶の水)文化学院
⇒東京女子経済専門学校(現・新渡戸文化中学校・高等学校)卒業
ちなみに、石井ふく子は本名です。
売れっ子芸者の母のもと婚外子として生まれ育つ
石井さんは、「分川本の君鶴」と呼ばれた売れっ子の芸者で、小唄の家元となったお母さん・三升延さんのもと、婚外子として誕生すると、働くお母さんの代わりにおばあちゃんに育てられ、お母さんとおばあちゃんの3人で暮らされたそうですが、
(石井さんの祖父母は芸者の置屋を営んでおり、石井さんのお母さんは養女だったそうです)
実は、石井さんを妊娠中だったお母さんは、9月1日に生まれた子どもは「人に恵まれて育つ」というのをどこかで聞いたことから(「天一天上」という暦にあたるそうです)、
母親となっても自分は自分のために人生を生きるだろう、そんな母が子どもにできることは、最上の日に産んでやることしかない
と、なんと、出産予定日よりも半月以上も早いその日(9月1日)に赤ちゃんを産むと決め、現在ほど医療技術が発達していなかったにもかかわらず、危険な帝王切開手術を受けて出産されたそうです。
幼少期は踊りに夢中だった
そんな石井さんは、料亭や置屋が軒を連ね、踊りの師匠や落語家たちも暮らす、いわゆる花街で生まれ育ち、芸者だったお母さんの影響で、3歳から踊りを習い始めると、
これが楽しくて楽しくて仕方がなく、踊りに夢中になったそうで、将来は踊りの師匠になりたい、と思われたそうです。
三升延さんと石井さん(5歳頃)
学校が大嫌いだった
一方、学校の方はというと、行きたくないばかりに、朝になると、本当に具合が悪くなるほど、大嫌いだったそうで、
ぐずぐずとして、なかなか学校に出かけないでいると、教育熱心なところもあったお母さんはこれを許さず、石井さんを追い立て、ものすごい剣幕で家から学校まで、裸足のまま追いかけてきたそうで、その後、石井さんが校門に入っていくのを見届けて、ようやく家に帰っていかれたそうです。
ただ、石井さんは、学校に行っても、じっとしていることができず、しょっちゅう、いたずらをしては、廊下に立たされたそうですが、
そうなると、しめたものと、そのまま屋上に上り、学校の向かいにある踊りのお師匠さんのお稽古場を眺めたそうで、そのうち、稽古場にまで訪れ、踊りを踊る、という毎日を過ごされたそうです♪
踊りを断念
しかし、13歳の時、「かっけ」を患うと、それが原因で、かかとが下につかなくなってしまって踊れなくなり、大好きだった踊りの道を断念せざるを得なくなってしまい、
(「かっけ」とは、ビタミンが欠乏して起こる病気のことで、最悪、死に至ることもあるそうで、石井さんの場合、治療に1~2年かかったそうです)
その後は、親戚のつてをたどり、建築家の西村伊作さん、詩人の与謝野晶子さん・鉄幹さん夫妻らを中心に創設された「文化学院」に入学されるのですが、
この学校の持つ、自由な校風になじめず、ほかの生徒が自由な服装で登校するなか、石井さんは、たった一人、自分で制服と決めた服だけを着て登校されたのだそうです。
母親が伊志井寛と結婚するも石井ふく子は戸籍に入れてもらえず
そして、同時期には、お母さんが、劇団「新派」の俳優・伊志井寛(いしい かん)さんと結婚されたため、3人での暮らしが始まるのですが、伊志井さんは、入籍する際、連れ子である石井さんの入籍を拒否。
そのため、戸籍上、母である三升さんは伊志井さんの妻となるも、石井さんは伊志井さんの子供にはなれず、後に伊志井さんが亡くなった際、伊志井さんが認知していた実子と遺産の分配でトラブルになると、継子である石井さんには相続権が存在しないことがはっきりし、
石井さんは、後に、著書「想い出かくれんぼ」で、
20年以上経過してもなお、母と共に受けた屈辱として、その騒動のことを忘れていない
と記されています。
「石井ふく子が若い頃は新東宝から女優デビューしていた!」に続く
この時(ひな祭り)は、和やかな石井さんと伊志井寛さんでしたが・・・