アラーキーこと荒木経惟(あらき のぶよし)といえば、誰もが知るカメラマンですが、実は、幼い頃から、セミプロカメラマンだったお父さんの助手としてカメラに親しみ、その後、本格的にカメラに没頭していくと、みるみる、カメラマンとしての資質を開花させていったのでした。
年齢は?出身は?本名は?
荒木さんは、1940年5月25日生まれ、
東京市下谷区三ノ輪(現・東京都台東区下谷三ノ輪)のご出身、
学歴は、
東京都立上野高等学校
⇒千葉大学工学部写真印刷工学科卒業
ちなみに、「荒木経惟」は本名です。
幼少期を吉原遊郭の近所で過ごす
荒木さんのお父さんは、下駄屋を営んでおられたのですが、小中学校の入学式・卒業式など学校行事の撮影を頼まれるほどの腕前で、セミプロとして活動されており、荒木さんは、小学校を上がる頃には、そんなお父さんの撮影を手伝っていたそうです。
また、荒木さんの自宅は吉原遊郭に近く、自宅前には、遊女の投げ込み寺として有名な浄閑寺があり、
(江戸時代、身寄りのない遊女の遺体が数多く運び込まれたそうです)
子どもの頃から浄閑寺の墓場を遊び場にするなど、下町のおおらかさの中でのびのびと育ちつつ、エロスの感性や死生観も同時に育まれていったそうで、
荒木さんは後に、
子供時代の環境でオレの写真は決まったね。エロス(生・性)が身近にあって、それにタナトス(死)が付いてくる。
「エロトス」って呼んでんだけど、要するに、人間の本能に正直になれってことを教えられた。
と、語っておられました。
ちなみに、荒木さんは、小学校高学年の時、お父さんにカメラを買ってもらったそうですが、初めて撮影したのは、初恋の同級生の女の子(修学旅行先)で、「恋」がシャターを押させたとのことでした♪
大学在学中に撮影した「さっちん」が「第1回太陽賞」を受賞
そんな荒木さんは、高校時代には、写真家になることを志すようになり、1959年、当時、国立大で唯一写真科があった、千葉大学工学部写真印刷工学科に進学されるのですが、いざ入ってみると、期待とは裏腹に、写真の授業は一切なく、理科系の授業が中心で、ただただ化学の実験ばかり。
ただ、同級生の中で抜群に頭の良かった清水勇さん(後に東工大教授)が、実験や試験を、全部、荒木さんの代わりにやってくれたそうで、
写真の時間を作ることができた荒木さんは、写真に没頭しカメラ雑誌のコンテストに次々応募すると、なんと、コンテストの賞金で、大学の学費を支払うことができるほど、しばしば、上位に入賞。
そして、1962年、大学4年生のある日、古いアパートから飛び出してきたおどけた少年に、
この子はオレだ
と、自分自身を重ね、
卒論に、下町で元気いっぱいに遊ぶ子どもたちのドキュメンタリー映画を制作しようと思いたち、大学に「テレビ映画科」を作ってくれるよう頼むと、大学が全て機材を揃えてくれたそうで、
約1年間、子どもたちと一緒に遊びつつ、ドキュメンタリー映画「さっちん」を制作し、
1963年には、無事に大学を卒業。
その後、荒木さんは、「電通」に宣伝用(広告)カメラマンとして就職されるのですが、翌年の1964年、ヴィジュアル雑誌「太陽」の公募に、大学の卒業制作「さっちん」のスチール写真を応募すると(ドキュメンタリー映画と並行して写真撮影もされていたそうです)、見事「第1回太陽賞」を受賞されたのでした。
ちなみに、荒木さんは、この「さっちん」について、
この「さっちん」というネーミングは傑作である。私は、その頃「のぶちん」と呼ばれていた。それをもじって星野幸夫を「さっちん」と呼んだのである。
まさしく、それはのぶちんである。私のこの「さっちん」は、のぶちんの自己紹介にほかならない。これは、得意のネーミングをすれば、「セルフタイマー・フォト」とでもいえよう。
私は、このセルフタイマー・フォトから出発することを試みたのであり、それは当然のことであった。
と、明かされています。
電通時代は会社のスタジオでこっそりヌード写真を撮影していた
ところで、荒木さんにとって会社の仕事である、トースターや冷蔵庫の写真撮影はとにかく退屈で、わざと下手に撮ったり、手を抜いていたそうで、ついには、仕事がこなくなってしまったそうですが、
逆にそれを幸いと、昼間、喫茶店で女の子を口説いては、夕方から、会社のスタジオでヌード写真を撮影し、展覧会を開催するなど、独自の活動に励むほか、
社内にこっそりと自分の事務所のようなスペースを作り、会社の備品を使って撮影した写真の作品集を何冊も作られたそうで、
1970年には、なんと、会社の機材を利用して自身の写真を印刷した、手作りの写真集「ゼロックス写真帖」を刊行されたのだそうです。
「荒木経惟は妻・荒木陽子に夢中で写真集を多数出版していた!」に続く