めきめきとカメラマンの資質を開花していった荒木経惟(あらき のぶよし)さんですが、「電通」に入社すると、退屈な仕事の合間に、好き放題。そんな時、社内で運命の女性とめぐり会います。
「荒木経惟の若い頃は電通のカメラマンも密かにヌードを撮影していた!」からの続き
妻・陽子との馴れ初め
大学卒業後に就職した「電通」では、会社の仕事もそこそこに、会社の施設や備品を使って、やりたい放題で自身の仕事に打ち込まれていた荒木さんですが、
1968年、社内報撮影で訪れた文書部タイプ室で青木陽子さんと出会うと、もっさりした前髪をきっちりとピンで留めるような、とても素朴な女性だった陽子さんに、
何かある
と、直感めいたものを感じたそうで、
陽子さんをセンターに座らせて撮影すると、それがきっかけで、交際に発展。
その後、荒木さんは、どんどん陽子さんに惹かれていき、社内スタジオをこっそり使用しては、陽子さんの写真を撮りまくり、ついに、1971年には結婚されます。
「センチメンタルな旅」「わが愛、陽子」を出版
そして、結婚後も荒木さんは陽子さんを撮り続け、1971年、京都~福岡・柳川~長崎と新婚旅行の道中を撮影した、写真集「センチメンタルな旅」を自費出版すると、
その後も、
1982年「わが愛、陽子」
「10年目のセンチメンタルな旅」
1984年「ノスタルジアの夜」
1985年「愛情生活」
1987年「酔い痴れて」
1989年「愛情旅行」
と、夫婦生活の中で陽子さんを撮っては、写真集を次々と出版されており、
後に、荒木さんは、
結婚しても、どこかミステリアスだった。それが一番の魅力だった。
と、時折、物憂い表情を見せる陽子さんに、尽きない魅力を感じたこと明かされています。
過激なヌード写真で摘発も
そんな荒木さんは、陽子さんと結婚した翌年の1972年には、「電通」を退社しフリーランスとして活動をスタート。
この頃から、自ら「天才アラーキー」と名乗り、黒メガネに八の字髭(ひげ)という、誰が見ても怪しい出で立ちで、様々なメディアに登場するのですが、
そんな風貌のせいか、荒木さんには常にいかがわしいイメージがつき、数ある作品の中でも、過激なヌード写真が、より注目されるようになります。
そして、1981年、若い男性をターゲットにした雑誌「写真時代」が創刊されると、荒木さんは、性的イマジネーションを膨らませながら、独自の虚構世界を作り上げ、後に三大連載と言われる、
「景色 淫花開く」
「少女フレンド 少女世界」
「写真生活 天才詩人の食事メニュー」
「少女世界」
を掲載し、「写真時代」の中心写真家として活躍されたのでした。
(ただ、その過激さから、何度も警視庁の摘発を受け、1988年に過激なヌード写真で摘発されると、ついに「写真時代」は発禁となっています。)
妻・陽子が死去!子供は?
その後も、荒木さんは、小津安二郎監督作品「東京物語」からインスピレーションを得た「東京物語」「TOKYO NUDE」ほか、次々と名作を発表し、精力的に活動を続けられるのですが・・・
同年夏、妻の陽子さんに「子宮肉腫」が見つかり、わずか半年後の1990年1月には陽子さんが他界してしまいます。(享年42歳)
(ちなみに、お二人にお子さんはなく、愛猫の「チロ」が「一人娘」代わりだったそうです)
妻・陽子を失った悲しみを作品に昇華
荒木さんは、この、あまりにも突然過ぎる別れに打ちひしがれ、その後は、毎日、陽子さんと幸せな時間を過ごしたバルコニーから空や花を撮るようになったそうですが、
その寂しさを埋めるため、その撮影したモノクロームの空の写真に、絵の具で彩色をすると、
印画紙が絵の具をはじいて意図しない模様ができたのは、神との出会いだと思った。
と、偶然の産物からインスピレーションを得たそうで、
1991年には、20年前に刊行した、「センチメンタルな旅」(1971年)の写真と、陽子さんの死の前後を、日付入りコンパクトカメラで撮影した写真日記「冬の旅」を併せた、「センチメンタルな旅・冬の旅」を刊行。
そして、1996年には、陽子さんの死後、自宅のバルコニーで撮影した、空・花・愛猫などの写真を収めた、
「荒木経惟写真全集3 陽子 」
「荒木経惟写真全集11 廃墟で」
を次々と刊行され、陽子さんを失った悲しみを作品へと昇華されたのでした。
「荒木経惟はモデル(ミューズ)の湯沢薫とKaoRiから告発されていた!」に続く
妻の陽子さんと荒木さん。