1954年「小坂一也とワゴン・マスターズ」のヴォーカルとして、ファーストシングル「ワゴン・マスターズ」でレコードデビューされると、たちまち人気を博した、小坂一也(こさか かずや)さん。その後は、エルヴィス・プレスリーのカバー曲を次々とリリースし、「和製プレスリー」と呼ばれました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
小坂さんは、1935年5月30日生まれ、
愛知県名古屋市のご出身(東京育ち)、
学歴は、
(小学校~高校一貫)成城学園中退、
ちなみに、
小坂一也は本名です。
若い頃は「小坂一也とワゴン・マスターズ」
小坂さんは、中学生の時に、カントリー・ミュージックに興味を持ち始めると、1952年、高校2年生の夏には、先輩だった、「ワゴン・マスターズ」のリードヴォーカル、藤沢恵治さんに連れられて、「ワゴン・マスターズ」のステージを観に行かれるのですが、
それをきっかけに、ヴォーカルとして「ワゴン・マスターズ」に参加し、米軍キャンプを中心に歌手活動を始められると、人気を博したことから、1953年には高校を中退。
(小坂さんはアメリカのカントリー歌手、レフティ・フリゼルをモデルにされていたそうで、その歌声に観客席から、よく「レフティ!」と歓声が上がったそうです)
そして、1954年、「小坂一也とワゴン・マスターズ」として、ファーストシングル「ワゴン・マスター」でレコードデビューすると、たちまち、カントリー・ミュージック界のアイドル的な存在としてブレイクされたのでした。
「ワゴン・マスター」より。
和製プレスリー
以降、「小坂一也とワゴン・マスターズ」は、
1955年「デビイ・クロケットの唄」
「ジングル・ベルズ」
「テキサスの黄色いバラ/荒野の呼声」
「ヘイ・ミスター・バンジョー/沙漠に帰る男」
「デビイ・クロケットの唄」
1956年「キャットル・コール/魔法の谷間」
「シックスティーン・トンズ/モンタナの夜」
「シックスティーン・トンズ/モンタナの夜」
と、立て続けにシングルをリリースし、
1956年には、当時、アメリカで絶大な人気を誇っていた、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」のカバーをリリースすると、
たちまち、ロックンロール旋風を巻き起こし、小坂さんは「元祖和製プレスリー」と呼ばれるように。
(ただ、プレスリーのようにギターをかき鳴らし、絶叫するスタイルではなく、あくまでカントリー歌手としてのスタイルだったそうです)
そして、その後も、
1956年「サンタクロースがやって来る」
「アイウォントユー・アイニードユー・アイラヴユー」
「アイウォントユー・アイニードユー・アイラヴユー」
1957年「冷くしないで/雨に歩けば」
「君を求めて/さすらいの旅人」
「君を求めて/さすらいの旅人」
「ブルースを唄おう/ブルーベリィ・ヒル」
「モンタナの夜/荒野の呼び声」
「モンタナの夜/荒野の呼び声」
「ラブ・ミー/幽霊の町」
「ヤング・ラブ/ドント・フォービッド・ミー」
「ヤング・ラブ/ドント・フォービッド・ミー」
「ウイチタの保安官/ライダース・イン・ザ・スカイ」
「北風さん/バタフライ」
「北風さん/バタフライ」
「ホワイト・スポーツ・コート/アイル・ビー・ホーム」
「ロンサム・カウボーイ/ホワイ・ベビー・ホワイ」
「オール・シュック・アップ/ママ・ギター」
「ロンサム・カウボーイ/ホワイ・ベビー・ホワイ」
と、プレスリーのカバーやカントリー・ミュージックを次々とリリースすると、押しも押されぬ人気者となられたのでした。
(ちなみに、1956年に「NHK紅白歌合戦」に初出場されると、当時としては異例の、「NHKでロックンロールを歌った」歌手として話題を集め、以降、3年連続で、「NHK紅白歌合戦」出場を果たされています。)
活動休止へ
そして、1957年11月に開催された「ウエスタン・カーニバル」では、相変わらずの人気から、「小坂一也とワゴン・マスターズ」は、トリを務めるのですが、
(「ウエスタン・カーニバル」とは、1954年からウエスタンバンドが集まって、東京・有楽町蚕糸会館6階の東京ヴィデオ・ホールで開催されていたイベント)
翌年の1958年2月に開催された一大イベント「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」には不参加。
実は、この時、「小坂一也とワゴン・マスターズ」は、すでに解散状態となっていて、出場を見合わせたそうで、
同年、シングル「監獄ロック/テディ・ベア」をリリースしたのを最後に、「小坂一也とワゴン・マスターズ」としては、シングルをリリースしておらず、解散を明言されていないものの、事実上、解散となったのでした。
ちなみに、小坂さんはその後、雑誌の座談会で、このときの「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」を見た感想を、
これはもうかなわない、引退かなって思いました(笑)
と、語っておられるので、事実上、解散となったのは、それが理由だったのかもしれませんね。
「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」
(「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」とは、日本劇場を運営する東宝が、1958年2月8日から第1回を開催したもので、観客動員数は初日だけで9500人、1週間では45000人を記録する大成功を収めており、ドーム球場や日本武道館等が存在しない当時としては、異例の記録だったそうです)
ソロとして
その後、小坂さんは、
1958年「青春サイクリング」
「キャンプたのしや」
「夢のアリゾナ/待ちぼうけの喫茶店」
「青春サイクリング」
1959年「にれの木陰で」
「俺の恋人/青春のドライブウェイ」
1960年「ローハイド/連邦保安官」
「ワルツィング・マチルダ(映画「渚にて」主題歌)
/五つの銅貨(映画「五つの銅貨」主題歌)
「ワルツィング・マチルダ/五つの銅貨」
「君を送った帰り道/夜の雨には想い出がある」
「遥かなるアラモ(映画「アラモ」主題歌)/アラモの歌」
1961年「無敵のライフルマン」(テレビ西部劇「ライフルマン」主題歌。
B面は守屋浩の「われらのライフルマン」)
「無敵のライフルマン」
と、しばらくは、ソロで歌手活動を続けておられたのですが、以降は、俳優活動がメインとなり、歌手としては、時折、シングルをリリースする程度となっています。
「星空の街」で俳優デビュー
そして、その俳優活動ですが、実は小坂さんは、「小坂一也とワゴン・マスターズ」時代の1957年に、「星空の街」で主演の小村一也役で映画デビューされており、
「星空の街」より。小坂さん(左)と江原達治さん。
その後も、
「地獄岬の復讐」
「歌う弥次喜多 黄金道中」
などで、劇中の歌手役として映画に出演されると、俳優としての素質を認められ、1958年には、「松竹」と契約し、木下恵介監督の「この天の虹」に出演。
すると、この映画での演技が注目されて、木下作品を中心に数多くの映画に出演されるようになり、やがては、松竹映画に欠かせない俳優となられたのでした。
「小坂一也の死因は?十朱幸代と結婚も松坂慶子との不倫が原因で離婚!」に続く