「レ・ミゼラブル」など、舞台、ミュージカルに数多く出演し、その深みのあるお芝居のほか、歌やダンスでも観客を魅了する、村井國夫(むらい くにお)さん。今回はそんな村井さんの生い立ちをご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?改名?

村井さんは、1944年9月20日生まれ、
佐賀県佐賀市のご出身(中国の天津市生まれ)、

身長176センチ、
体重70キロ、

靴のサイズは25.5センチ、

血液型はA型、

学歴は
佐賀市立日新小学校
⇒佐賀市立城南中学校
⇒佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)卒業

趣味は、
音楽観賞、葉巻、陶芸、観劇(ミュージカル)、タップダンス、ゴルフ、スキー、 

ちなみに、2012年1月、それまでの「村井国夫」から「村井國夫」に改名されています。

1歳の時、母親に背負われて中国から日本に引き揚げる

村井さんは、兄弟で「村井洋行」という建築会社を中国で設立し、天津、北京、上海にも支店を出すほど手広く展開していたお父さんのもと、5人兄弟の末っ子として、中国・天津で誕生すると、

終戦後の1946年、お母さんに背負われて日本に引き揚げたそうですが、当時1歳だった村井さんは、あやうく、残留孤児になるところだったといいます。

(お父さんは中国で抑留され、1954年になり、ようやく最後の引き揚げ船「興安丸」で帰って来たそうです)

人見知りを治すため母親に勧められ演劇部に入部

そんな村井さんは、お母さんの実家がある佐賀で暮らし始めるのですが、末っ子で病弱だったことから、甘やかされて育てられ、内気で人見知りの激しい子どもだったそうで、

高校に入学する際には、「社会に出てから苦労するのでは・・・」と心配した、女剣劇のファンだったお母さんから、「いやが応でも人前で話さなくてはならないから」と演劇部入りを熱心に勧められ、演劇部に入ることに。

ただ、自分で入部を申し込むことさえできず、お姉さんの演劇部の同級生が迎えに来てくれ、ようやく入部することができたそうです。

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演劇部の部長・辻萬長から演劇の基礎を学ぶ

こうして、なんとか演劇部に入部することができた村井さんは、当時、すでに俳優志望で演技に対して独特のメソッドを持っていた、先輩で部長の辻萬長(つじ かずなが)さんから、マンツーマンで演劇を基礎から教えてもらったそうで、

登校前にはほぼ毎日、学校のそばの幅50メートルほどある旧佐賀城外堀を挟んで発声練習をやるほか、放課後は、パントマイム、演技、表情の作り方、セリフの言い方などの芝居全般、歌、台本の選び方、ガリ版の扱い方、大道具、小道具、照明、音響など、ありとあらゆることを教えてもらったのだそうです。

(辻さんは、後に、井上ひさしさん主宰の劇団「こまつ座」に所属し、舞台を中心にテレビドラマ、映画に出演されています)

ただ、旧佐賀城内にあった佐賀高校は、鍋島藩の藩校「弘道館」をルーツに持ち、文武両道をポリシーとしている学校だったこともあり、「軟派」なイメージの演劇部は人気がなく、20人の部員中、男子部員は村井さんと部長の辻萬長さんの2人だけだったそうです。

「村井國夫は昔「俳優座養成所」で「花の15期生」!」に続く

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