高校卒業後、演劇部の先輩・辻萬長さんの後を追って「俳優座」養成所に入所した、村井國夫(むらい くにお)さんですが、「俳優座」養成所卒業後も舞台だけでは食べて行くことができず、映画やテレビドラマに転向。しかし、やがて、舞台で活躍する同期の姿を見て、舞台への情熱が再燃します。

「村井國夫は昔「俳優座養成所」で「花の15期生」!」からの続き

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「自由劇場」に参加

1966年、21歳の時には、「俳優座」養成所を卒業した村井さんですが、お芝居だけでは食べていくことができず、「東映」の「大忍術映画 ワタリ」で映画デビューすると、以降、「東映」の映画に立て続けに出演。


「大忍術映画 ワタリ」より。本間千代子さんと村井さん。

ただ、やはり、お芝居がやりたかったため、同年夏には、養成所の先輩である、斎藤憐さん、佐藤信さん、串田和美さんの劇団「自由劇場」に参加されたそうで、

村井さんは、当時を振り返り、

その頃は生意気で、映画より芝居だと思っていたんですね。自由劇場は、僕が養成所を卒業する前に作られたのですが、ぜひ一緒にやらせていただきたいと参加しました。

借金して照明器具を買うような状況でしたが、僕は映画にも出ていましたから、そこで多少の金はもらえていました。当時はアンダーグラウンドが一つのブームでもあったんですね。

狭い小屋でしたが、お客さんがたくさん観にいらして、一種のマグマみたいなものがありました。僕も、その中にいることに興奮を覚えました。21歳の若造でしたから、そのテンションの中で芝居することに酔っていたのかもしれません。

と、語っておられます。

(「東映」から専属契約の話もあったそうですが、お芝居を優先するため、本数契約にしてもらったそうです)

「自由劇場」を退団し活動の場をテレビに移すも・・・

しかし、それほど情熱を注いだお芝居も、貧乏には勝てず、4年ほどで「自由劇場」を退団。

そして、その後は、当時、活気のあったテレビドラマに活動の場を移されるのですが・・・

やがて、同じような事件が起きる話ばかりのテレビドラマにマンネリ化を感じ、自分の生きる場所ではないと思えてきたそうで、再び、「自由劇場」の頃の演劇へのときめきがふつふつと蘇ってきたのだそうです。

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「藪原検校」を観て衝撃を受ける

そんな中、1973年、「俳優座」養成所の同級生である、高橋長英さんと太地喜和子さんが出演する舞台「藪原検校(やぶはらけんぎょう)」(井上ひさし作)を観て、

俺はテレビでいったい何をやっているんだ

と、頭を殴られたような衝撃を受けたそうで、

さらに、その後、高橋さんの「たいこどんどん」(「五月舎」制作・木村光一さん演出)を観て、打ちのめされると、五月舎が制作し、木村光一さんが演出する舞台作品へ出演させてもらうようになり、心地いいと思いながら演じることができたそうで、

村井さんは、

長英君、小野武彦君、三田和代さん。同期の舞台は今も観に行きますし、みんなも観に来てくれます。友人たちが僕を奮い立たせてくれる。一緒に成長しているような気がしています。

と、今も舞台で活躍する同期のメンバーから刺激を受けていることを明かされています。

「村井國夫はミュージカル「レ・ミゼラブル」で13年もジャベール役を演じていた!」に続く

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