ついに、3番目のお兄さんと再会を果たした、宝田明(たからだ あきら)さんですが、家族に置き去りにされ、たった一人でハルビンから過酷な旅を続けてきたお兄さんは、身も心もボロボロになっていたのでした。
「宝田明は戦後ハルビンに兄を置き去りに一家で日本へ引き揚げていた!」からの続き
兄との再会を果たすも・・・
ついに、お兄さんとの再会を果たした宝田さんですが、
ようやく会った家族に、声を発しても気づいてもらえなかったお兄さんは、
第一声が、
何で俺を置いて帰ったんだ
だったそうで、
胸が痛んだ宝田さんは、
いや、そうじゃなくて駅に張り紙を…
と、しどろもどろとなって答えるも、
お兄さんは、
そんなものは見ていない
と、言ったそうで、
とても家族の再会を喜ぶという状態ではなく、重苦しいやりとりが続いたそうです。
苦労してたった一人で帰国した兄
宝田さんによると、後に、お兄さんは、
俺は石炭担ぎをやってたときにソ連兵に引っ張っていかれた。ソ連兵の部隊に入り、旧関東軍の兵舎にいた。厨房で飯炊きとか、運びとかさせられた
と、語っており、
実は、宝田さん一家が住んでいた「満鉄」の社宅からほんの15分のところにいたにもかかわらず、ソ連兵が解放してくれず、ようやく解放され、社宅に戻るも、そこはもぬけの殻だったそうで、
お兄さんは、中国人の家で、ロバの代わりに自分が臼を回して粉を引く仕事をして、食べさせてもらい、その後、南へ南へと下り、海の見えるところまでくると、そこで、何ヶ月か働き、お金を貯めて密航船を雇ったそうです。
そして、その密航船に乗って九州の浜辺に到着すると、そこから、ずっと日本海づたいに歩き続け、新潟の村上市にたどり着き、道を尋ねたのが、宝田さんたちだったのでした。
人間不信となり行方をくらますも見守ってくれた兄
そんなお兄さんは、日本へ帰る道中、殴られたり、切られたりしたのか、顔中、傷だらけで、辛すぎる体験をしたせいか、心がすさみ、すっかり人間不信になってしまっていたそうで、
宝田さんや家族がいくら愛情をかけようとしても、受け入れてくれず、ほどなくして、忽然と姿を消してしまったそうです。
ただ、その後、宝田さんが中学生の時、一家は、親戚を頼って東京に引っ越しされるのですが、宝田さんが高校生の時、引っ越したことを誰かから聞いて住まいを探し当てたのか、お兄さんが、近所の子どもに託して、紙に包んだ100円札をくれたそうで、その紙には、
明、頑張れ。マサオより
とだけ書いてあったそうです。
(宝田さんが、あわててお兄さんを追いかけて探すも、もう、姿は見つからなかったそうです。)
また、その後、宝田さんがまだ駆け出しの俳優だった頃にも同じようなことがあり、その時は、100円札が2枚入っていたそうで、包んであった紙には、
明、よかったな。頑張れ
と、書いてあったそうで、宝田さんは、お兄さんがずっと見守ってくれていたことを知ったそうです。
戦争が生んだ悲劇
その後しばらく経ち、宝田さんは、お兄さんから「結婚した」という連絡を受け取ったため、「良かったなぁ」と思いながら(両親には内緒で)お兄さんに会いに行ったことがあったそうですが・・・
なんと、お兄さんの顔はミミズ腫れだらけだったそうです。
実は、お兄さんは、北海道の炭鉱で毎日叩かれながら働いており、あまりに苦しいため、何度も脱走するも、すぐに見張りに捕まって連れ戻され、またひどい目に遭わされての繰り返しだったのです。(いわゆる「タコ部屋労働」)
それでも、お兄さんは、若い時は当たり障りのないことを話して、いつもニコニコしていたそうで、還暦を過ぎて、ようやく、辛い戦争体験を話すようになったそうです。
そして、その後、まもなく、お兄さんは63歳で亡くなったそうで、
宝田さんは、
兄の人生って何だったんだろうと思うと……。この人の人生を誰が償ってくれるのか。戦争は死んだ人だけじゃなくて、生き残った人も苦しめる。同じような悲劇は、敵味方関係なくどこの国でもたくさんあったでしょう。それが戦争の残酷さです。
と、語っておられました。
「宝田明の若い頃はゴジラでブレイクし東宝二枚目トップスターだった!」に続く