1961年、中学3年の時、友達の付き添いで行ったオーディションで合格し、芸能界入りすると、翌年の1962年には、「東京キカンボ娘」で歌手デビューすると同時に、音楽バラエティ番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」で司会者に起用され、たちまち人気を博した、木の実ナナ(きのみ なな)さん。しかし、やがて、人気が低迷してしまいます。

「木の実ナナは友達のオーディションの付添で合格し芸能界入りしていた!」からの続き

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人気低迷

1962年、音楽バラエティ番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」で司会者に起用され、たちまち人気を博した木の実さんですが、

1965年に番組が終了すると、1967年に、シングル「ミニ・ミニ・ロック」でヒットを飛ばすものの、その後はヒット曲に恵まれず、人気は低迷。仕事が激減してしまいます。


「ミニ・ミニ・ロック」より。

そんな木の実さんは、有名歌手の前座などを務めながら、何とか家族を養っていたのですが、やがて、

いつか一人でショーをやりたい

と、思うようになったそうです。

榎本健一のアドバイスで舞台を目指す

そんな折、テレビドラマで共演した榎本健一さんに、

ナナ、お前は正面より、後ろ姿がいいな。顔はチンクシャみたいだけど

と、正面の顔ばかりが映るテレビではなく、後ろ姿でも観客を魅了することができる舞台を目指すことを勧められたそうですが、

(※榎本健一さんとは、第二次世界大戦前後の日本で、「エノケン」の愛称で親しまれ、俳優、歌手、コメディアンとして活躍した「日本の喜劇王」)

ちょうど、その頃、所属事務所が経営しているナイトクラブがロサンゼルスにあったことから、アメリカ行きの話が舞い込んだそうで、木の実さんは、1970年、23歳になる直前の夏、心機一転、本場のショービジネスを学ぼうと、渡米を決意したのでした。

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アメリカ修行中には様々な経験

こうして、アメリカに渡った木の実さんは、自分で舞台の構成もしたそうで、「お江戸日本橋」をかけながら着物姿でステージに登場し、パッと着物を脱ぐと、下は超ミニスカートという姿で「ビートルズ」「モンキーズ」の曲などのポップスを歌い、日系人の客を中心に喜んでもらったり、

関係者にラスベガスに連れて行ってもらった際には、シャーリー・マクレーンさんのショーを観て感動。ショーの後、マクレーンさんの楽屋を訪ねると、マクレーンさんが、並んで写真を撮ってくれたばかりか、

ニホン、から、来たの?

と、片言の日本語で話しかけてくれ、鳥肌がたつほど嬉しい思いをするなど、様々な経験をされたのでした。

「木の実ナナが若い頃は劇団四季の「アプローズ」で一躍脚光を浴びていた!」に続く

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