1924年、早稲田大学中退後、「築地小劇場」の第一期研究生となり、第1回公演「海戦」で初舞台を踏まれた、千田是也(せんだ これや)さん。その後、ドイツへ4年間留学され、帰国後は様々な劇団を設立。左翼的な演劇活動に身を投じらています。1942年に設立された「俳優座」では、1994年に亡くなるまで代表を務められています。


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プロフィール!

千田さんは、1904年7月15日生まれ、
東京府東京市(現在の東京都)のご出身です。

学歴は、
早稲田大学中退、

本名は、伊藤圀夫、

ちなみに、芸名の千田是也は、
「これなり」が正しい読み方ですが、
「これや」で定着しているようです。

享年は、1994年で、
肝臓癌のため、90歳で亡くなっています。

左翼的な演劇活動

千田さんは、1924年、早稲田大学中退後、
「築地小劇場」の第一期研究生となると、
第1回公演「海戦」の水兵役で初舞台を踏まれ、

1926年には、村山知義さん、佐野碩さんらとともに、
「前衛座」を結成。

翌年の1927年には、ドイツに留学し、
ラインハルト演劇学校で演劇を学び、
労働者の革命的演劇に参加されています。

そして、ラインハルト演劇学校卒業後は、
ドイツ共産党に入党し、国崎定洞さんらとともに、
ドイツ共産党日本語部を設立。

小林多喜二の「一九二八年三月十五日」など、
日本のプロレタリア文学をドイツ語訳するなど、
左翼色の強い活動をされていたようです。


一九二八年三月十五日

「俳優座」の設立

そして、1931年、
4年のドイツ生活を終えて帰国されると、
同年、「東京演劇集団」を結成し、

ベルトルト・ブレヒトの戯曲「三文オペラ」を翻訳した、
「乞食舞台」で第一回公演を敢行。

1934年には、「新築地劇団」に参加し、
演出と俳優を両立されていたのですが、

左翼的な演劇活動を行っていたため、
1940年には、検挙され、獄中生活を送られています。

ただ、1942年出所後は、「俳優座」を設立され、
1949年には「俳優座養成所」
1954年には「俳優座劇場」
を開設し、「俳優座」のリーダーとして活躍。

平幹二朗さん、仲代達矢さん、山崎努さん、佐藤慶さん、原田芳雄さんなど、数多くの名優を輩出されたのでした。

特撮映画好き

また、千田さんは、数多くの映画に出演されており、
その中でも特に、特撮映画がお好きだったとのことで
1950年代は、東宝特撮映画に数多く出演。

SF・特撮映画の企画があると、当時助監督だった中野昭慶さんに、
熱心に出演のオファーを出されていたそうです。


「大怪獣バラン」より。左端の男性が千田さん。

名前の由来は関東大震災?

ところで、千田さんを「関東大震災」で、
多くの方が検索されているようです。

調べてみると、千田さんは、19歳の時、
関東大震災に遭っているのですが、

その翌日の夜、千駄ヶ谷で自警団が

「朝鮮人だ!朝鮮人だ!」

と叫んでいる声を聞き、

自分も朝鮮人をはさみ撃ちにしてやろうと走ったそうですが、
運悪く自警団にぶつかってしまい、千田さん自身が、
朝鮮人と間違えられて、自警団に取り囲まれてしまったそうです。

そして、自警団に、

「叩き殺すぞ」

と、こずかれたので、

本名を名乗り、早稲田の学生証を見せたそうですが、
それでも信じてもらえず、

幸い、自警団の中に近所の人がいたことで、
事なきを得たのだとか。

千田さんは、この経験から、

「自分も加害者になっていたかもしれない」

との自戒を込めて、

「千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)」

と、芸名を「千田是也」にされたのだそうです。

小林多喜二と?

また、千田さんを「小林多喜二」で、
調べられている方も多いようですが、

小林多喜二とは、「蟹工船」「不在地主」「党生活者」などで有名な、
戦前のプロレタリア文学の代表的な作家。

(2008年にも、若い世代の貧困層の拡大、低賃金、長時間労働などの、
 社会問題から突如脚光を浴び、「蟹工船・党生活者」が、
 50万部を売り上げるベストセラーを記録しています。)


蟹工船・党生活者

千田さんが、どのように小林多喜二と知り合い、
親交を持たれていたのかは分かりませんでしたが、

2015年に、特高警察によって虐殺された小林多喜二の遺体を、
仲間が取り囲む写真の原板10数枚と、枕元に遺族が座る別のカットが、
発見されています。

(小林多喜二の遺体を仲間が取り囲む写真は、もともと有名な写真なのですが、
 今回はその原板が見つかったということと、新たに、うなだれる遺族の写真が、
 見つかったことで、話題となっています。)

そして、その仲間の中には、千田さんが写っているのですが、
千田さんは、小林多喜二の遺体が遺族の元に戻された、
1933年2月21日の翌日、22日0時頃にタクシーで駆けつけたそうで、

その1時間後の午前1時頃に、
この写真が撮影されたと言われています。

また、正確な時間は分かりませんでしたが、この時、
千田さんは小林多喜二のデスマスクを制作したそうで、

このデスマスクは、現在、
小樽文学館に保存されているそうです。

千田さんたちが腕組をして、小林多喜二の遺体を見下ろすショットや、
デスマスクの制作などの無言の抗議は、今のように言論の自由がない、
当時にできる数少ない抗議だったのでしょうね。

妻は?

最後に、千田さんのプライベートですが、
千田さんは、ドイツ留学中に、
ドイツ人女性のイルマさんと知り合い、結婚。

1931年に、イルマさんを伴い帰国されると、
翌年の1932年には、娘のモモコさんが誕生しているのですが、

千田さんが、左翼演劇活動に従事し、度々投獄されていたことや、
演劇活動に熱中するあまり、家庭を顧みなかったことなどから、

1939年には、イルマさんが、モモコさんを連れて、
祖国ドイツに帰国、離婚となったようです。

ただ、1942年には、「俳優座」の看板女優だった、
岸輝子さんと再婚されています。

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娘は?孫は?

ちなみに、千田さんは、イルマさんと離婚の際、
イルマさん宛の荷物の中に、モモコさん宛の人形を忍ばせ、

その人形の、お腹のところには、

「ベルリン、あなたは私を思う」

背中のところには、

「東京、私はあなたを思う」

とドイツ語で書かれていたそうです。


若い頃のモモコさん

そして、1952年には、
モモコさんに日本へ来ることを勧め、再会されているのですが、

モモコさんは、その後、幼馴染みで従兄弟の、
中川晴之助さん(映画監督)と結婚。

誕生した娘(千田さんの孫)の中川安奈さんは、
女優として活動されていましたが、
2014年、49歳の若さで、
「子宮体がん」により他界されています。


「ゴジラvsキングギドラ」に出演時の中川安奈さん。

さて、いかがでしたでしょうか?

1998年には、「毎日芸術賞」で、
目覚ましい活躍をした演出家に与えられる、
「千田是也賞」が設けられるなど、
後世に大きな影響を与えた千田さんですが、

近年、小林多喜二が再び脚光を浴びるなど、
労働問題の多い日本社会においては、まだまだ、
千田さんのような人は必要なのかも。

これを機会に、千田さんの作品を、
ご覧になってはいかがでしょう♪

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