1986年12月9日午前3時過ぎ、「たけし軍団」(一部のメンバーを除く)と共に写真週刊誌「フライデー」を襲撃し、翌1987年6月10日、懲役6か月、執行猶予2年の判決を下された、ビートたけしさんですが、当時は明らかにされていなかった出来事が背景にあったようです。

「ビートたけしが活動自粛!懲役6ヶ月(執行猶予2年)の判決!」からの続き

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「フライデー襲撃事件」の真相は?

たけしさんが「フライデー」を襲撃したのは、交際していた専門学校生への執拗な取材がが原因だとされていたのですが、実は、それだけではなかったようです。

たけしさんが裁判で語ったところによると、以前、「フライデー」に、奥さんが子どもを私立の学校の入学試験に連れていくところを写真に撮られたことがあったそうですが、

そのせいで、その学校から、

子供の写真が週刊誌に掲載されるようでは入学させられない

と、不合格になっていたというのです。

このように、家族に対して、執拗な取材があったことも事件の一因だったようで、日頃からの「フライデー」に対する鬱憤が蓄積していた中、専門学校生への執拗な取材があり、「フライデー」襲撃となったのでした。

フライデーの記者がフリーライターと偽ってスパイ行為していた

そんなたけしさんは、2019年9月10日放送の「FNS27時間テレビ~にほんのれきし」に出演された際、「フライデー襲撃事件」について、当時は語っていなかった真相を明かしておられます。

たけしさんは、

俺が(発行元の)講談社行って、ちょっと話し合いに行ったんだけど、それがいつの間にか大げんかになって殴っちゃうんだけど

と、語りはじめると、

「フライデー」のヤツなんだけど、フリーライターっているじゃん。記事だけ売り込む。それが俺に手紙をくれるわけだよね。全然お金がない。だけど私はライターなんで、あなたの取材をさせてくれたらそれを出版社に売って、いくらかになるんで、どうしても。悪口は書きませんからってなって、会ったのよ。かわいそうだから。

それで取材して、最初の「フライデー」ってのは大した記事じゃなかった。それで『今度は現場に行っていいですか?』って言うから『俺の仕事現場?』『そうなんですけど』って。まあそういう仲だからって言って、来るようになった。楽屋にいつもいるの。

その後から「フライデー」の記事がなんか、芸能界のスキャンダルがやたら出るようになったの。『アレアレ?』って。みんなが『変だ変だ』って言ったら。『アイツじゃねえか?スパイやってたのは』って言って、やっぱりそうだった。

『そいつはいるか?』って(編集部に)電話したら『来い』って言うから行ったら、実は契約(ライター)でいねえってなっちゃって、ケンカになっちゃった。俺が好きでやったワケじゃないんだから。

と、なんと、「フライデー」の記者がフリーライターと偽ってスパイ行為をしていたことを明かされたのでした。

なぜつまみ枝豆は呼ばなかったのか?

ところで、「たけし軍団」にもかかわらず、つまみ枝豆さん、井手らっきょさん、ラッシャー板前さんの3人は、この襲撃に参加していません。

なぜ、この3人は参加しなかったのでしょうか。

まず、井出さんは、愛人の家にいて連絡がつかず、ラッシャー板前さんは、痔の手術で入院中だったそうです。

ただ、つまみ枝豆さんに関しては、たけしさんがメンバーを招集する際、

枝豆だけは動かすな

と、言ったというのです。

というのも、つまみ枝豆さんは、「たけし軍団」に入る前は、右翼団体員で逮捕歴があり、木刀を持ってソ連領事館の塀を乗り越えたこともあるほど、一本気なところがあったそうで、たけしさんはそれを知って、つまみ枝豆さんだけは呼ばなかったのでした。

実際、事件をテレビで知ったつまみ枝豆さんは、自分が参加できなかったことを強く恥じ、講談社側の行った記者会見をテレビで見て、彼らの顔をチェック。刃物を用意して、記者会見中に襲おうとしていたそうで、

つまみ枝豆さんが、まさに出かけるその瞬間、

じっとしてろ!

と、拘置所のたけしさんから電話があり、襲撃を思いとどまったというのです。

(たけしさんは、拘置所で拘束されている状況下、弁護士や家族ではなく、真っ先に、つまみ枝豆さんのことが頭に浮かび、禁止されている電話をかけさせてくれないか、と頼み込んだそうです。)

フライデー編集長のコメント

一方、「フライデー」側はというと・・・

「フライデー」創刊編集長で襲撃事件の当事者・伊藤寿男さんは、2016年インタビューで、以下のように答えられています。

インタビュアー:フライデー襲撃事件は、1986年12月9日の午前3時過ぎに、お笑い芸人のビートたけしさん率いるたけし軍団が講談社本社の編集部を襲撃した事件です。その前日、フライデーの契約記者がたけしさんと交際していた専門学校生の女性に、強引な取材をしたことが引き金となったとか。

伊藤さん:当時はフライデーがあまりにも売れていたから、編集部におごりがありました。その点で行きすぎた取材があったことは、反省すべきところです。襲撃のきっかけになった12月8日の取材以前にも、記者がたけしさんを徹底的にマークして取材を続けていた時期だったので、お互いにわだかまりがあったんです。

伊藤さん:たけし軍団のプライバシーに踏み込んだ記事、他にも社会的タブーに関する記事を掲載することで、圧倒的なアンチを生むと同時に、週刊誌の地位を確立させたという自負はあります。

インタビュアー:アンチというと、苦情の電話や投書があったということでしょうか。その当時だとインターネットは普及していないですよね。

伊藤さん:たけしさんが逮捕された後、釈放される時には講談社前にある警察署に、彼の支援者や野次馬が300人も集まりました。三島由紀夫の自決を取り上げた創刊号の時も、たくさんの野次馬が会社の周りを取り囲んでいましたね。

インタビュアー:それは大騒動でしたね。そんなとき、どのような気持ちでその問題に対峙されていましたか?

伊藤さん:フライデー襲撃事件当時は、編集部員たちを守らなければならないと思っていたので、気に病んでいる暇はありませんでした。早朝の3時に編集部に襲撃があって、4時には自宅で休んでいた私のもとに電話がかかってきました。

ただ、第一報を聞いたときには「これで講談社を辞めなければいけないな」と思いました。立場上、社長など自分の上に立つ人はいましたが、その人たちに責任を取らせる訳にはいかない。自分のところで食い止めるには、私の辞職が必要だったので。

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「オフィス北野」を設立

さて、事件後、たけしさんは、「太田プロダクション」を退社し、個人事務所「オフィス北野」を設立されています。

実は、たけしさんは、復帰直後、行く先々で、右翼団体に復帰時期尚早と街宣をかけられており、このことを「太田プロダクション」に相談したそうですが、まったく対処してもらえなかったそうで、

らちのあかない状況に、たけしさんは、事務所を退社することを条件として、自ら、街宣を指示していた右翼団体幹部のもとに出向くことになったのだそうです。

実際、たけしさんは、自ら、右翼団体幹部と交渉して、ことを収めたというから凄すぎます。

さて、いかがでしたでしょうか。

当時、たけしさんは、

20年もたったら実にまぬけなお笑いの事件になってるよ。こんなことが何で事件になるんだっていう感じだな

と、語っておられたのですが、

インターネットはもちろん、SNSが普及した昨今、「プライバシー」や「肖像権」の問題は急速に拡大しており、たけしさんのこの「フライデー襲撃事件」は、決して、過去のまぬけなお笑いの事件とはなっていません。

「ビートたけしの愛車は2億?超高級外車ばかりで凄すぎる!」に続く

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