大正末期から昭和初期にかけて活躍し、「剣戟王」「阪妻の前に阪妻はなく、阪妻の後に阪妻はなし」とまで称された、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さん。今回は、そんな阪東さんの生い立ちから下積み時代についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?芸名の由来は?

阪東さんは、1901年12月14日生まれ、
東京府神田区橋本町(現・東京都千代田区東神田)のご出身、

身長172センチ、

学歴は、
旧制・尋常小学校高等科卒業、

ちなみに、本名は、「田村 傳吉(たむら でんきち)」ですが、芸名の由来は、「吾妻座」時代の師匠 ・吾妻市之丞(あづま いちのじょう)の別称「坂東」を「阪東」に変更し、「吾妻」を逆さにして「妻五ロ」(ツマゴロウ)としたそうで、「ツマゴロウ」では語呂が悪いため、「妻三郎」にしたのだそうです。

また、阪東さんは、「岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)」名義で、映画監督もされていました。

父親は破産し母と兄と姉は他界

阪東さんは、木綿問屋を営むお父さん・田村長五郎さんのもと、次男として誕生すると、お母さんとお姉さんが芸事やお芝居が好きだったことから、芸能に慣れ親しむ幼少期を送られます。

しかし、小学校を卒業するあたりから家業が傾き始めると、やがて、お父さんは破産。さらに、同じ頃、お兄さん、お姉さん、お母さんが相次いで亡くなるという不幸に見舞われてしまいます。

十一代目片岡仁左衛門の内弟子に

そんな阪東さんは、「立身出世の早道」を求めて、歌舞伎役者になろうと決意すると、16歳の時には、十五代目市村羽左衛門さんに弟子入りを申し込むも、あえなく門前払い。

ただ、落ち込んで帰宅する途中、近くの歌舞伎役者・十一代目片岡仁左衛門さんの屋敷が目に入り、思い切って飛び込むと、伊藤さんという番頭(現在でいうマネージャー)が取り次いでくれ、片岡さんの内弟子になることが許されたのでした。

(十一代目片岡仁左衛門さんは、自らも恵まれない環境から這い上がって成功を収めたため、阪東さんのように家業が傾いて生活が立ち行かなくなった子どもなど、弱い立場の者を受け入れていたのだそうです)

歌舞伎役者を断念し「吾妻座」に入座

こうして、運良く弟子入りできた阪東さんでしたが、仕事は雑用ばかりで、その合間に舞台を見学し、メモをとる毎日。

(師匠について、大阪中座の「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みで初舞台を踏まれたことはあったそうですが、あくまで、上演に先立ち、劇場で各分野の裏方が必要な準備をする「仕込み」だったことから、セリフはなかったそうです)

そんな生活を2年間我慢するも、1918年、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始めた矢先、ちょうど浅草の沢村宗五郎さん、吾妻市之丞さんらの一座「吾妻座」からスカウトされたそうで、

一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる

と、お金にもなると考え、「吾妻座」に入座。芸名「沢村紀千助」を名乗り、「吾妻座」で俳優活動を始められたのでした。

映画に新天地を見いだすも・・・

しかし、パッとせず、ほどなくして、吾妻市之丞さんに連れられ、再び歌舞伎座に戻ったそうで、師匠・仁左衛門さんには顔向けできない日々を過ごします。

そんな中、阪東さんは、自ら有志を募って劇団を作られるも、これまたすぐに挫折したそうで、1919年には、新たに設立された「国活」(国際活動株式会社)に移籍すると、

同年、「阪東要二郎(その後 、阪東藤助)」名義で、沢村四郎五郎さんの映画(当時は活動写真と呼ばれていたそうです)の端役でデビューし、沢村さんや實川莚十郎さんに頼み込んでは、昼は映画、夜は劇場に出演する生活を送られたのでした。

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エキストラに甘んじる日々

そして、1920年6月、「松竹キネマ蒲田撮影所」が新たに設立されると、實川さんとともに「松竹キネマ」に入社されるのですが、

(理由は不明ですがトラブルがあったようで)「国活」への逆戻りを余儀なくされ、以降、長らく日の目を見ることなく、脇役(エキストラ)に甘んじる日々を過ごされたのでした。

「阪東妻三郎の若い頃はマキノのもと燃ゆる渦巻でブレイク!」に続く

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