デビュー後も、尊敬する植木等さんの付き人として、充実した毎日を送るも、植木さんの計らいで独立した、小松政夫(こまつ まさお)さんは、独立後は、持ち前の観察眼を生かしたギャグやモノマネ芸で、コメディアンとして頭角を現していきます。
「小松政夫は植木等からクビを宣告され号泣していた!」からの続き
初の司会に失敗するも植木等の励ましで立ち直る
デビュー後も、植木等さんに心酔し、植木さんの付き人を続けていた小松さんですが、1968年、植木さんの計らいで独立した小松さんは、すぐにバラエティ番組「今週の爆笑王」の司会を任されますす。
ただ、「コント55号」、「てんぷくトリオ」、「トリオ・スカイライン」、「エノケン」、由利徹さんなど、そうそうたるコメディアンを束ねなければならず、
まだ、経験が浅く、引き出しも少なかった小松さんは、舞い上がってしまい、二度も三度も同じことを言うなど、支離滅裂な司会になってしまい、結果的に打ち切りになってしまいます。
そして、ズタボロになった小松さんは、植木さんを訪ね、
うまくいきませんでした。すみません
と、言ったそうですが、
植木さんは、ニコッと笑ったような顔をして、それから、ポンっと小松さんの肩を叩き、
まあ、焦りなさんな、ということなんだろう。だけどいいなあ。お前は酒飲めるから。一日のお終いにビールをキューっと飲んで、よし明日から頑張ろうと一日のけじめをつけられる。俺は飲めないから、一日のけじめが饅頭だよ。
饅頭でお茶飲んで“よーし、頑張ろう”じゃないよな。お前、飲めるんだろ。なら、飲んでパーッと忘れちゃえ。俺より楽しみがあって、素晴らしいじゃないか。
と、なぐさめてくれたそうで、小松さんは、この言葉に生き返ったような気がしたといいます。
コメディアンとして頭角を現す
こうして、植木さんの言葉で立ち直った小松さんは、ある日、焼き鳥屋さんのカウンターで、ある女性がホスト風な男性に向かって、5分間に100回くらい、「おせーて」と言っているのを聞いて、
どうして!どうしてなの!おせーて!
というギャグを生み出し、
旧日本兵の小野田寛郎さんが、戦後29年ぶりにルバング島から帰国した際、小野田さんのお母さんが、
アンタはエライ
と言ったのを聞くと、これもギャグに取り入れるほか、
「悪りーね、悪りーね、、ワリーネ・デートリッヒ」
「どーかひとつ」(対面する相手の両肩に手を置き、膝を曲げて軽く押さえる)
「なが~い目で見てください」(両目尻を手で横に引っ張り長く延ばしながら)
「ハイ、またまたまたお会いしました」(淀川長治さんのものまね)
「まあ、怖いですね、怖いですね」(淀川長治さんのものまね)
「もーイヤ、もーイヤこんな生活!」
などなど、それまでの、練りに練られた台本の上で成立するギャグではなく、流行り言葉や身近な人からヒントを得たギャグで頭角を現していったのでした。
独立後も植木等との師弟関係は続いていた
ちなみに、小松さんは、植木さんから独立した後も、テレビや舞台、映画で植木さんと共演すると、撮影で同じところに行く際には、
植木さんから、
来なくていいって言っただろう
と、言われても、一緒について行くなど、独立後もしばらくは離れられなかったそうで、その後も、小松さんは、何かあると植木さんに相談されるなど、師弟関係はずっと続いたのだそうです。
「小松政夫は昔は伊東四朗との電線音頭で大ブレイクしていた!」に続く