戸塚睦夫さんの誘いを断りきれず、あくまで三波伸介さんの代役として、「三波伸介」の名前でキャバレーに出演していたにもかかわらず、好評を博したことから、三波さんが戻ってきてからも、3人で「三波戸塚伊東トリオ」(後のてんぷくトリオ)を結成することになった、伊東四朗(いとう しろう)さん。この後、「てんぷくトリオ」の快進撃が始まります。

「伊東四朗は昔三波伸介としてキャバレー回りをしていた!」からの続き

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「てんぷくトリオ」でブレイク

三波伸介さんが林家三平さんの番組「飛び出せ三ちゃん」に出演した縁で、1962年、
日劇のショーに参加した「ぐうたらトリオ」は、やがて人気を博し、「てんぷくトリオ」に改名させられるのですが、

時代は演芸ブームで、特にトリオブームが到来したことで、時流に乗ってテレビや一般の舞台にも次々と出演。

すると、軽演劇を生かした芸風の「てんぷくトリオ」は、トリオブームの中堅として、徐々に舞台やテレビで人気を博し、ついには、三波さんのギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりし、ブレイクを果たします。


(左から)戸塚睦夫さん、三波伸介さん、伊東さん。

歌謡バラエティ番組「九ちゃん!」にレギュラー出演

そして、1965年には、日本テレビのプロデューサー・井原高忠さんに見込まれ、坂本九さんがメインを務める歌謡バラエティ番組「九ちゃん!」に起用されるのですが、井原さんは、「てんぷくトリオ」に歌や踊りを要求してきます。

ちなみに、三波さんは軽演劇を得意とし、戸塚さんはお父さんが剣劇の名門一座で剣劇が得意だったのですが、伊東さんはというと、トリオの中でもあまり目立たず、特にこれといった芸がなかった(真っ白な状態だった)ため、伊東さんが、楽器、歌、踊りを担当することに。

それからというもの、伊東さんは、ステッキを持って踊らされるわ、英語の歌を歌わせられるわ(口パク禁止だったそうです)、ヴァイオリンを弾けと言われるわと、従来の芸風とは異なる路線を強いられたことから、猛特訓を重ね、それはそれは、本当に大変だったそうです。

ただ、

鉄は熱いうちに打てと言われるけれど、熱いうちにとことん鍛えてくれた

と、そのお陰で、芸の幅も広がり、伊東さんは、この番組で世間に認められることとなったのでした。

(伊東さんは、ちょうどこの頃、結婚して子どもも生まれたばかりだったことから、当時住んでいたアパートでヴァイオリンの練習をしていたそうですが、赤ん坊が泣き出すからと奥さんに外で練習するように言われ、なんと、裏の墓場で練習していたそうです)

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「トリオ・ザ・パンチ」と出演を争っていた

ところで、後に伊東さんは、西洋風な「九ちゃん!」という番組に、「てんぷくトリオ」のような泥臭い芸がなぜ起用されたのか、いまだに分からないと語っているのですが、

実は、当初、日本テレビのプロデューサーである井原さんと放送作家の中原弓彦(後の小林信彦)さんとの間では、「てんぷくトリオ」「トリオ・ザ・パンチ」、どちらのお笑いトリオを起用するかで、ちょっとした押し問答があったようです。


「トリオ・ザ・パンチ」の「妖怪マーチ」

というのも、中原さんは、西洋風な「九ちゃん」には、「武芸アラカルト」「名月赤城山」「柳生武芸帳」などの芸を持つ「てんぷくトリオ」よりも、現代風の笑いを持ち味とする「トリオ・ザ・パンチ」の方が番組のカラーに合うと、「トリオ・ザ・パンチ」を推していたそうですが、

井原さんはというと、「てんぷくトリオ」の評判を聞き、本当に芝居ができるのか、また、その芝居は面白いのかを確かめるため、わざわざ自ら、横浜のキャバレーに「てんぷくトリオ」の芝居を観に行ったそうで、

結果、「てんぷくトリオ」の実力を認め、「てんぷくトリオ」を強く推し、何度かの押し問答の末、井原さんが強引に「てんぷくトリオ」に決められたそうで、

その後、「てんぷくトリオ」は、コメディ番組「てなもんや三度笠」「笑うんだもんね!」で主演を務めるほか、「お昼のゴールデンショー」にレギュラー出演されるなどひっぱりだことなっているので、井原さんの見立てに狂いはなかったことが証明されています。

「伊東四朗のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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