ストリップの合間の短い喜劇を楽しみに、「フランス座」に足繁く通ううち、出演者の喜劇役者・石井均さんの目にとまって声をかけられ、あれよあれよと初舞台を踏み、その楽しさから、石井さんが旗揚げした劇団「笑う仲間」に入団された、伊東四朗(いとう しろう)さんですが、その後、またまた、思わぬ展開となっていきます。

「伊東四朗の昔フランス座での運命の出会いとは?」

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「石井均一座」として再出発

早稲田大学の生協からの正社員の話を蹴り、石井均さんの劇団「笑う仲間」に、研究生として入団された伊東さんですが、「笑う仲間」は、石井さんともう一人の共同主宰者が仲違いし、わずか数ヶ月で解散。

ただ、石井さんが、新たに「石井均一座」を立ち上げ、再出発を果たすと、特に、学生層の人気を博したそうです。

そして、この時、財津一郎(当時は財津肇メ)さんが新たに加入したそうで、伊東さんは財津さんと音楽を通じて意気投合されたそうです。

「三波伸介」名義(代役)でキャバレー巡り

ところで、石井さんは、もともと、劇場の仕事だけでは食べていけず、1956年、ある芸能事務所から紹介された夜のキャバレー営業を、同じ「フランス座」で活動されていた戸塚睦夫さんを誘って、「石井・戸塚コンビ」としてキャバレー回りをされていたそうですが、

その後、石井さんが、1958年に「フランス座」から独立し、劇団「笑う仲間」を旗揚げされると、劇団の運営とキャバレー巡りとの兼任は難しくなり、キャバレー巡りは辞めてしまいます。

そして、戸塚さんも石井さんの独立に同行し、劇団「笑う仲間」の旗揚げには参加されていたのですが、キャバレー巡りを続けたい戸塚さんは、「フランス座」で活動されていた三波伸介さんを新たに誘い、二人でコンビを組んで新宿のキャバレーでコントをするようになったそうです。

すると、戸塚さんと三波さんのコンビはキャバレーで人気を博すのですが、今度は、三波さんが「フランス座」のスケジュールの都合で出演できなくなっていったことから、

お前、ちょっと代わりにやってくれないか

と、伊東さんが三波さんの代役を戸塚さんから頼まれるようになったそうで、

伊東さんは、最初は断られていたそうですが、戸塚さんの熱心な誘いに断りきれなくなり、「三波伸介」の代役として、「三波伸介」の名前で出演されるようになったのでした。

戸塚睦夫・三波伸介とともに「三波戸塚伊東トリオ」を結成

そして、さらに、その後(1960年初頭)、三波さんが突然失踪したことにより、伊東さんは、「三波伸介」として夜の舞台に立ち続けることを余儀なくされるのですが、

そんな中、三波さんが、大阪で、玉川良一さん、東けんじさんとともに「おとぼけガイズ」というトリオを結成し、活動していたことが判明。

ただ、三波さんが「おとぼけガイズ」を解散し、東京に戻って来て、戸塚さんとのコンビに復帰することになります。

ここで、伊東さんは、本来ならお役御免というところなのですが、三波さんの代役期間中、キャバレーの従業員たちと顔なじみになったほか、ステージも好評だったことから、いまさら、伊東さんを外すわけにはいかず、

三波さんが、

ここで伊東をクビにするのは何だから、三人でやろうか。

と、伊東さんを含めた3人で、「三波戸塚伊東トリオ」を結成されたのでした。

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「ぐうたらトリオ」から「てんぷくトリオ」に

その後、「三波戸塚伊東トリオ」は、「ぐうたらトリオ」と改名し、キャバレー回りを続けていたそうですが、

(「石井均一座」は1961年に解散しています)

1962年、三波さんが、林家三平さんの番組「飛び出せ三ちゃん」に出演されると、

三平さんから、

日劇でショーをやるけど出てみない?

と、誘われたそうで、

(三波さんは、ピンでも仕事を求めて活動していたことから、テレビ出演のチャンスを掴んだそうで、そのことが、後に「ぐうたらトリオ」がテレビ出演することにつながっていったそうです)

最初のうちは、名前もクレジットされなかったのですが、次第に人気を博し、出演者として名前を連ねるようになります。

そして、その際、支配人から、「ぐうたらトリオ」という名前は丸の内にはふさわしくないと、改名を求められたそうで、日劇に出演していた先輩・由利徹さんのトリオで、当時、人気のあった「脱線トリオ」をもじって、「てんぷくトリオ」と改名されたのでした。

(当時、日劇と言えば、フランキー堺さん、ジョージ川口さん、クレージーキャッツなど、一流の大物スターが看板をかかげていた劇場だったそうで、伊東さんらは、ビッグチャンスをものにされたのでした)

「伊東四朗が若い頃はてんぷくトリオでブレイクしていた!」に続く

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