映画「くノ一忍法」では体当たりの演技を披露するも、その後は不本意な役ばかりで、やはり自分には女優業は合わないと強く思うようになっていったという、芳村真理(よしむら まり)さんですが、ちょうどそんな時、ワイドショー「小川宏ショー」のパートナー司会のオファーが舞い込んだといいます。
「芳村真理のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」からの続き
「小川宏ショー」で司会者に抜擢される
ちょうど、女優業に嫌気が差していた時(1966年)、ワイドショー「小川宏ショー」の女性パートナー司会だった木元教子さんが産休で降板することになり、後任の女性パートナー司会のオファーがきたという芳村さんですが、
「小川宏ショー」では、コーナーごとに時代に即応した情報が次々と紹介され、それが目を見張るほど面白く刺激的で、また、それにコメントしながら番組を進めていく役割が、自分にピッタリだと思ったそうで、
1時間半の生放送は、あっという間に終わり、
なんて楽しいの!
と、これまで味わったことがないワクワク感を覚え、
これが、私が出たかった番組だ
と、思ったそうで、
芳村さんは、この、たった1回の出演で、
今日この日を限りにほかの仕事は断ろう
と、決心したのだそうです。
(芳村さんは、1959年にも、モデル活動と並行して、音楽番組「ザ・ヒットパレード」の司会を務めています)
「小川宏ショー」より。左から2人目が芳村さん。(左端は男性パートナー司会の露木茂さん、右端は総合司会の小川宏さん)
司会業に専念するためNHK大河ドラマの準主役のオファーも断っていた
実際、1ヶ月くらいで、ほかのテレビやラジオのレギュラーは全部降り、なんと、NHK大河ドラマの準主役のオファーまで断ったそうで、これには周囲が驚いたそうですが、
芳村さんは、仕事をしていて楽しいと思えることが一番大事だと思っていたそうで、また、この時、31歳で、そろそろ自分がこれから何をやっていくのかを考えなければならない時期だったこともあり、迷いは一切なかったのだそうです。
(ちなみに、ミニスカートを着用して出演した際には、主婦からクレームの電話が鳴り止まなかったそうですが、逆に、若い世代の主婦層からは支持を得て、次第に視聴率が上昇したそうで、1年後には、若い女性は全員ミニスカート姿になっていたそうです(笑))
音楽番組「夜のヒットスタジオ」で人気司会者に
とはいえ、「小川宏ショー」は、月曜日から金曜日の朝のワイドショーだったことから、月曜日から金曜日、毎朝3時半に起きて局へ行かなければならず、これが大変で、1年半ほどで疲れ果てて降板したそうですが、その半年後の1968年には、音楽番組「夜のヒットスタジオ」の司会に抜擢。
当初は、もう一人の司会者である前田武彦さんのアシスタント的な立ち位置だったのですが、前田さんが1973年に降板した後は、芳村さんがメインを張るようになり(後任の男性司会者は三波伸介さん)、台本を片手に持ちながら、自然体の話術で司会進行をするという独特の司会スタイルが視聴者にウケ、番組の人気に貢献。
その後、男性司会者が、三波さんから、井上順さん、古舘伊知郎さんと替わるも、芳村さんは、20年に渡って1千回もの司会を担当し、
当時、男性がメイン司会者、女性がそのアシスタント、というスタイルが一般的だった中、芳村さんは、女性でメインを張ることのできる司会者の第一人者となったのでした。
「夜のヒットスタジオ」より。前田武彦さんと芳村さん。
ちなみに、後に芳村さんは、
私、セリフや段取りを覚えるのが苦手だから、いつも台本を持ってやってたけど、それが安心感につながって、とっても気楽にできました。
と、語っています。
「芳村真理は「夜ヒット」後マハラジャに若手歌手を連れて行ったことも!」に続く