歌手の江利チエミさんとは結婚後もラブラブな様子だったにもかかわらず、結婚生活の内情は様々な問題をかかえていた、高倉健(たかくら けん)さんですが、ついに、江利さんと離婚されます。ただ、その後、江利さんが若くして亡くなると、長年、後悔の念を持ち続けていたといいます。
江利チエミと離婚
奥さんの江利さんが、人前でも高倉さんのことを「ダーリン」と呼ぶなど、仲睦まじい様子から、一見、順調に見えた結婚生活も、江利さんの異父姉に、仲をかき回されたうえ2億円横領されるなどしていたお二人ですが、
ついに、江利さんが、
(異父姉の件で)これ以上迷惑をかけられない
と、高倉さんに離婚の申し出をされ、1971年、お二人は離婚されます。
江利チエミとは憎しみ合って別れたわけではなかった
ちなみに、高倉さんは、後にインタビューで、
自分の女房に突然離婚を宣言されるなんてことは、誰にでもあることではないと思うんです。結構うまくいってると自分では思っていたのですが。
と、おっしゃっているのですが、
江利さんと親交の深かった清川虹子さんは、
チーちゃんは健ちゃんと約束してたんです。「世の中が私たちのことを忘れたら、ダーリンまた一緒になってくれる?」と。健ちゃんも「そうしよう」と答えたんです。
と、復縁の約束をしていたことを明かされていたほか、
高倉さんの付き人を40年されていた西村泰治さんも、高倉さんが離婚したばかりの頃、ちょうど、江利さんから電話がかかってきたところに居合わせたそうで、
(江利さんが)「健さん、もう一度、一緒になれないかしら」と言ってきたことがあった。そしたら健さんは「一度別れるって新聞で発表したんだから、いまさら戻るわけにはいかんだろう」と。
健さんは、自分にも他人にも厳しい人。チエミちゃんに諭すようにこう言ったんです。「おまえがいくら謝っても……。もっと……もっと早くに、なんでそう考えなかったんだ。こうなった以上は、もう一緒になれない。戻れない」
という、お二人のやり取りを明かしており、決して、憎み合って別れたわけではなかったようです。
(西村さんによると、高倉さんは、離婚後、撮影所の楽屋で、江利さんのヒット曲である「テネシー・ワルツ」を黙って聴いていることが何度もあったそうです)
亡き元妻・江利チエミへの想い
しかし、1982年2月、江利さんが、自宅マンションで就寝中に「脳卒中」を起こし、吐しゃ物をのどに詰まらせて、45歳という若さで突然他界。
西村さんによると、江利さんの訃報に接した高倉さんは、江利さんの自宅を訪れると、自宅の裏に回り、1時間以上、手を合わせ、その後(同日かは不明ですが)、2月の極寒の中、比叡山の飯室不動堂の滝に打たれに行かれたといいます。
そして、某芸能プロの社長によると、
離婚の前年の’70年に、健さん夫婦が暮らした世田谷の自宅が火事で全焼しました。異父姉による放火説もあったが、最終的には原因不明で、漏電だろうと言われています。
自宅の跡地はその後、空き地になっていたのですが、庭にあった木の枯れ葉がいくつか、隣家に舞い落ちていた。隣家の住人は気にも留めていなかったところ、ある日、健さんから〈枯れ葉でご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません〉と詫び状が来たそうです。
つまり、健さんは、枯れ葉が隣家に落ちているのを知っていた。二人が暮らした場所を、人知れず見に来ていたからでしょう。
とのことで、
高倉さんは、江利さんが亡くなってから4年後の1986年、全焼した家が建っていた土地に、約2億円の豪邸を建て直されているのですが、
自宅から約200メートルのところには、江利さんのお墓(世田谷区瀬田の法徳寺)があり、命日には、江利さんのお墓参りを欠かさなかったといいます。
江利チエミのことを生涯後悔していた
また、高倉さんを30年余り取材し続けた記者・谷充代さんによると、
健さんは、ラジオ番組(1996~2000年までパーソナリティを務めていました)での酒井大阿闍梨との対談をとても楽しみにしていました。誠実で真面目で迷いなど見せない健さんですが、唯一の後悔は江利チエミさんと別れたこと。その苦しさを誰かに話せたらいいのにと感じていました。
私がそれを実感したのは、1997年の秋。CM撮影を終えてパリに入り、偶然にも40日前に帰らぬ人となったダイアナ元妃の事故現場を通ったときでした。健さんが急にふさぎ込んでしまったんです。
帰国してからも、自分のラジオ番組でダイアナ元妃をしのぶエルトン・ジョンの曲を流したほどでした。風が吹く中のキャンドルに元妃の人生をたとえた歌詞からは、突然逝ってしまった人への未練が切々と伝わってきます。
健さんは、私に一度だけチエミさんの死を口にしたことがありました。「その女性は別れてから十年、思いもかけずに亡くなりました。訃報を聞いた瞬間、ずいぶん昔に別れたはずの女性との本当の別れが来た、そう思いましたね。自分の心の中にやり残したものがあると気付きました」と…
酒井大阿闍梨は、健さんと対談したときに、「死に別れても、一度結んだ契りはそうやすやすと切れるものじゃない」と言っておられた。その言葉は健さんの心の杖になっていたのだと思います。
ある日、私が比叡山に阿闍梨様を訪ねると、「せっかくやから」とお堂に案内してくださいました。そこで見せていただいたのは、健さんのお母さんと、チエミさんの位牌。
「僕は旅が多いので、手を合わせる機会もありません。こちらに置かせていただけますか」と、健さんが預けたそうです。別れたくて別れた2人ではなかったから、きっといまは天国で一緒ですね。
とのことで、
1999年に公開された主演映画「鉄道員(ぽっぽや)」の冒頭では、高倉さんの口笛が流れるのですが、その曲というのが、江利さんのヒット曲「テネシーワルツ」で、
谷さんによると、この口笛は、江利さんのことを後悔で終わらせるのではなく、一生大切にしていくという、高倉さんの決意の現れであり、一生涯「高倉健」として生きていく覚悟を決めたのでは、とおっしゃっていました。
(谷さんは、著書「高倉健の身終い」を上梓されるなど、高倉さんから、もっとも信頼を得ていた編集者であり、ルポライターだったそうです)