大学受験に二度も失敗し、グラフィックデザイナーを目指して専門学校「東京デザイナー学院」に入学した、高田純次(たかだ じゅんじ)さんですが、卒業後はめぼしい就職先がなく、バイト生活。しかし、この後、高田さんの人生が大きく動いていきます。

「高田純次の生い立ちは?幼少期は祖母と継母の板挟みだった!」からの続き

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劇団「自由劇場」の舞台「マクベス」に圧倒される

「東京デザイナー学院」を卒業した高田さんは、デザインやグラフィック関係の会社に就職することを希望するも、就職口がなかったことから、写真会社で、教習所で顔写真を撮るアルバイトをしていたそうですが、

そんな折、小劇場でお芝居をやっている先輩に、パンフレット(ポスター)描きを頼まれたそうで、それをきっかけに、その先輩に誘われて、劇団「自由劇場」のお芝居「マクベス」(シェイクスピアの戯曲)を観に行くと、

初めて観た生の演劇に、

こんな芝居があるのか、すげえな

と、圧倒。

小さな劇場の中をみんなが汗だくになって、飛んだり跳ねたりしていたのが、とにかくおもしろく、「マクベス」という本を読んだことはなかったものの、読んでみたいと思うほど惹かれたのだそうです。

「自由劇場」の第1期生募集に合格

すると、ちょうどその頃、「自由劇場」「麻布アクターズジム」という養成所を作り、第1期生(研究生)を募集していると聞いたそうで、思い切って受験すると、見事合格。1971年、「自由劇場」に入団されたのでした。

ちなみに、高田さんは、

高校、大学と落ち続け、初めての合格通知はうれしかった。ほとんど全員、受かったみたいですけど(笑)

と、その喜びを語っておられます。

「自由劇場」入団⇒イッセー尾形と「うでくらべ」結成⇒解散

こうして、高田さんは、1972年、「自由劇場」の研究生になられるのですが、(理由は不明ですが)1年で退団。

そして、退団後は、「自由劇場」の仲間だったイッセー尾形さんとともに、劇団「うでくらべ」を結成するのですが、こちらも、活動が思わしくなかったのか、半年ほどで解散されたのでした。

宝石会社「トキモト」に就職

そんな高田さんは、翌年の1973年、26歳で結婚し、安定を求めて、宝石会社「トキモト」に就職。

「トキモト」では、宝石を鑑定する仕事をされていたそうですが、一生懸命働いていたこともあり、取引先からの受けはとても良かったそうです。


「トキモト」時代の高田さん

柄本明とベンガルに劇団「東京乾電池」に誘われる

そんな中、「自由劇場」の仲間だった柄本明さんやベンガルさんから、劇団「東京乾電池」を旗揚げしたので入団しないかと、誘われたそうですが、

宝石会社「トキモト」での仕事がちょうど軌道に乗ってきたことや、お芝居をやっても食べていくことができないことを知っていたため、断られます。

さらに、観客として、浅草の木馬館でやっていた「東京乾電池」の第1回公演を、奥さんと一緒に観に行かれたそうですが、これが大コケだったそうで、

高田さんは、

こんなのやんないでよかったね

と、奥さんと二人、大笑いしながら帰ったそうで、完全にお芝居から心が離れたのだそうです。

柄本明とベンガルに4年ぶりに偶然再会

その後も、お給料のほか、ボーナスが年に2回ある、安定したサラリーマン生活にどっぷりと浸かっていた高田さんでしたが、

それから4年経ったある日のこと、女性を誘って、新宿の「ボルガ」というお店に飲みに行くと、そこで、4年ぶりに、偶然、柄本さんやベンガルさんと出会い、みんなで一緒に飲もうということになったそうです。

すると、みんなが演劇論を交わし始めたそうで、その本気な感じに高田さんは大きなショック。

その日は、落ち込み、女性を口説くことも忘れて、家に帰ったのだそうです。

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宝石会社「トキモト」を退職し再び演劇界に

すると、その後すぐ、ベンガルさんから、

次の公演に出ないか

と、誘いの電話がかかってきたそうで、

この時、すでに30歳になっていた高田さんは、

ここでやらなかったら、ずっとサラリーマンでいくしかないし、こういうチャンスもないかな

と、(貯金があったこともあり)すぐに辞表を書いて、会社を退職。

ちなみに、辞表には、「一身上の都合で」と書いたため、社長から「何すんの?」と聞かれたそうですが、さすがに芝居をやるとは言えずに、にごしたところ、社長は他の会社に引き抜かれたのだろうと思っていたとのこと。

また、奥さんには、会社に辞表を出して、何日か経ってから打ち明けたそうですが、さすがに泣かれてしまったそうで、

高田さん:家族は食わして行くから
奥さん:仕方ないわ

などの話し合いをして、なんとか納得してもらったそうで、

高田さんは、後に、

こればっかりはありがたいって思ってますよ。

と、ずっとついてきてくれた奥さんに感謝されていました。

「高田純次の若い頃は東京乾電池で「笑ってる場合ですよ」に出演していた!」に続く

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